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 その夜、リッドは眠れなかった。頭が熱く昂(たか)ぶっていた。
 だから朝が来ても、ああ朝が来たとしか思わなかった。一方でこの朝は昨日までの朝とまったくちがうことを自覚していた。
 リリーが目を覚まし、重たげに起きあがった。憂いがたまっているが、今の状況をきちんとわかっている目をしていた。

 

「今日はパーシャル大市の2日めね」

 

 うすいカーテンごしに、光を見る。そして彼女らしくない、皮肉な笑みをうかべた。

 

「今日こそは、ルビーに眠らされることなく、自由に行動させてもらえるのかしら」

 

 リッドは肩をすくめる。

 

「ほんと悪い男だよなルビーは。あたま痛くなったりしてないか?」

 

「二人が共謀してやったの、覚えてるわ。でも、そうね。昨夜はどうかしてた。あまりに突然のことだったから。今はもう頭が冷えたわ」

 

 伸びた背すじや、まっすぐな瞳は冷静そのものだ。だが取り乱していたリリーよりも、痛々しく見えた。

 

「あんまり無理すンなよ。オレの給金は後払いにしといてやるから、今までどおりオレをつかえ」

 

「リッドがいなくても、やっていける自信はあるのよ」

 

 可愛くないことを言う。だがリリーは、両手でリッドの右手をつつんで、続けた。
 やわらかい。

 

「でも、リッドがいないとどうしようもなく寂しいわ」

 

 この娘は、自分の声や仕草がどんな影響を与えるのか、まったく考えていないのだ。だからリッドは、自分以外の人間に同じことをしないよう、注意深くしていなければならない。

 

 手をにぎったまま、彼女はリッドを見上げた。

 

「いきなりシャラールの塔におしかけるのはたしかに軽率ね。治安官を相手にするにはまず、味方をつけなきゃならないと思うの。わたしが一番接触しやすいのはアンナル司祭よ。明るいうちは目立つから、夕方あたりに教会を訪ねるのはどうかしら」

 

 リッドも同じことを考えていた。
 やがてルビーが食糧と水を運んできた。一日分でもかなり重いため、荷馬車である。
 リリーはルビーにお礼を言い、アンナル司祭の件を話した。

 

「うん。もう司祭様に約束を取りつけてあるよ。リリーが教会に来るのは目立つから、夜に僕が司祭様を連れてここを訪ねる予定だ」
「ありがとう、ルビー」

 

 リリーは安堵の表情をうかべた。
 しかし、いかなアンナル司祭であっても判決をくつがえせるかどうか、微妙なところだとリッドは思う。なにせ伯爵の印があるのだ。

 

 ルビーが帰ったあと、日が暮れるのを2人でじっと待った。

 

「ルビーは誉れ高い聖術師よ。なのに未決囚の娘のためにここまでしてくれる。本当に優しい人ね」
「困っている者を救うのは聖職者の生きがいだろ」

 

 リリーが言う。

 

「じゃあ、リッドの生きがいは?」

 

 素直にこたえてもどうせジョークと取られるだけだ。けれどあえてそういう関係に導いたのは自分かもしれない。
 だから少し外したこたえを言う。

 

「仕事を最後までやりとげることだよ」

 

「なら、早くお給金を払えるようにがんばらなくちゃ」

 

「ああ。誰よりも熱心にうちこむから、ちゃんと見てろよ」

 

 夜更けに馬車が到着した。ユルヤナが御者台から降り、箱馬車の扉を開けた。

 

「ああ、今回のことは本当に大変だったねリリー」

 

 馬車から降りたアンナル司祭は、リリーの手をとった。目に涙が浮かんでいる。赤ん坊の頃から毎週のミサを欠かさないリリーは、アンナル司祭にとって孫のようなものだろう。
 リリーは気丈に微笑んで、来訪の礼を述べた。

 

「話の前にまず、リリーに話しておかなければならないことがある」

 

 

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