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「それは、たくさん困ってるけど――」

 

 リリーは当惑した。
 生まれた時に噂できいた? リリーは旅芸人の知り合いなど一人もいない。なのになぜ噂がたつのか、さっぱりわからない。

 

「困っているなら、僕とおいで。すぐに解決してあげるよ」

 

「ムリよ」

 

 風のように流れる旅芸人に、父が救えるとは思えない。
 だが青年は涼やかに言った。

 

「金がいるんだろう?」

 

 リリーは息をのんだ。
 お金――。たしかにそれが、今はほしい。お金があれば、リッドに迷惑をかけずにすむ。

 

「あなたの言うとおりよ。でも、どうしてわかったの?」

 

「人はどうしようもなくなった時に必ず求めるものが2つある。それは愛し愛される人と――お金だよ」

 

 幻想的な雰囲気に似つかわしくない、現実的な意見だ。

 

「それは職を紹介してくれるということ?」

 

「無粋な言い方だが、そう思ってくれてかまわない」

 

 リリーはあらがえなかった。リッドに話すと絶対に反対される。だから黙って行くことにした。
 普通なら、こんな怪しい男にけっしてついていかない。でも、リリーの背中押した理由がひとつだけあった。

 

 思い出したのだ。彼が奏でていたあの旋律は、亡き母が子守唄のかわりに何度も歌ってくれていたものだと。

 

 

 

 

 母の記憶は、あまりない。
 リリーが5歳のころ死んでしまった。
 教会のミサから帰る途中で、馬車にはねられたのだ。
 その時リリーはそばにいたらしいが、全く覚えていない。無意識に、記憶にフタをしているのかもしれなかった。

 

 ただ覚えているのは、父親の慟哭だ。
 悪魔に四肢を引きちぎられたような、激烈な痛みをともなう叫びだった。

 

 リリーは母親が大好きだった。
 母の顔すらうろ覚えなのに、その想いだけはなぜかずっと、宝箱にしまった宝石のように、心の中にずっとある。
 母に抱きしめられている感触を覚えている。温かくてやわらかい母の胸に包まれて、きもちよく揺すられながら、優しい子守唄を聞いていた。
 あれ以上の安心感を、リリーは知らない。

 

 

 

 

 連れてこられたのは地下市場ラタン・カームだった。大市の際、屋内市場や倉庫に使われたりするだけでなく、遠方からきた商人などが寝泊まりする場所である。
 市場に利用される大会場はしんと静まりかえっている。明かりは消されているので、青年――フリオが持つランプだけが頼りだ。

 

 さらに奥へ進むと、狭い通路の両側にいくつもの扉が並んでいた。時折、その奥から笑い声が聞こえてくる。

 

「僕の部屋はここ」

 

 見分けのつかない扉群の中の、1枚の前でフリオは立ち止まった。

 

「座長は隣の部屋だよ。まだ君のことは話してないけど、きっと歓迎してくれる」

 

 フリオは錠をつかって扉を開けた。
 室内は狭く、カビくさい。通風口が天井につけられているとはいえ、地下だからしかたないのかもしれない。
 ベッドがひとつに、小さなテーブルとイスが2脚。あとは荷物がすみのほうにまとめられているだけだ。

 

「狭くても一人一部屋とれるんだから、フローヴィア市は素晴らしいよ。この地下空間(ラタン・カーム)は広すぎるほど広い」

 

「ええ、そうね……」

 

 リリーはおずおずと部屋に入った。うしろでフリオが扉をしめ、鍵をおろす。
 がちゃり、という施錠音が背中を叩いた。リリーは突如不安に包まれる。

 

 

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