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 話がまとまったところで、二コラはぜんそく用の丸薬を包んでフレッドに渡した。

 

「ありがとう。薬学研究所の営業がうちにも来たんだけど、そこの薬は粉(こな)らしいんだ。二コラの丸薬が飲みやすくてよく効くよ」

 

「そう言ってもらえると嬉しいな」

 

 一般的に、薬師(くすし)の調合レシピは口伝であり、秘法となっている。なぜなら薬材の調合は何百通りもあり、患者の様子によってさじ加減を変えなければならないので、非常に複雑なのだ。

 

 だから薬師の家の子は、生まれた時から薬剤に親しみ、五感をでもって調合を体にしみこませていく。
 また、薬師同士で独自のネットワークを組み、流行しそうな疫病の予測、希少な薬草が採れる場所などを交換し合っているのだ。

 

 フレッドを見送るために店先へ出た時、村の常連客であるエルナおばさんが顔を出した。
 おばさんは子ども6人を立派に育て上げた、恰幅のいい女性である。今はおじいさんを介護中で、今日はその薬を取りに来たのだ。

 

「あら、あんたたちいつの間に子どもこさえたの? 昔から仲が良かったからいつ夫婦者(ふうふもの)になるのか村の人たちと賭けてたんだけど」

 

 とんでもない誤解に、二コラは全力で否定した。

 

「違う違う! あたしとフレッドが結婚だなんて、そんなこと逆立ちして考えたって絶対にありえないよ!」

 

「…………」

 

 なぜかフレッドは哀愁漂う遠い目をしている。エルナおばさんはそんな彼を憐れむように見ていた。

 

「この子はね、えーと、そう、薬師仲間が産んだ子なの。その子が忙しくなったから、少しの間預かることにしたんだ」

 

「へえ、そうなんだ。でもその子まだ1歳かそこらだろう? あんた子育て経験もないのに預かれるのかい?」

 

 そう言いながらエルナおばさんは、店先を横切って生活スペースである居間を覗いた。

 

「ああ、ゆりかごも置いてないじゃないか。子ども用の食器やよだれかけや、布おむつなんかはあるのかい? 赤ん坊なら着替えもいっぱいいるよ」

 

 二コラは大きな目でまばたきした。

 

「ひとつも持ってない……」

 

「預け主はとんだ母親だね。いいよ、どっかの家で余ってるのがあると思うから、もらってきてあげるよ。ちょうど今、お乳が用意できないから、恋しがって泣かないといいけど」

 

 呆れたようにエルナおばさんはため息をつく。二コラは飛び跳ねて喜んだ。

 

「ありがとおばさん! すっごく助かる!」

 

「いいよいいよこれくらい。あんたの薬にはお世話になってるからね。薬研(やっけん)とやらの営業がうちに来たんだけどさ、モミ手で愛想笑いして、口ばっかり上手でいまいち信用できないんだよ。おじいさんも、ここの薬以外は飲まん! って言ってるしね」

 

 二コラはもう泣き出しそうなほど嬉しい。

 

「うう、エルナおばさん、おじいさん、大好き」

 

「あんたもご両親早く亡くして大変だろうから、いつでも頼るんだよ。ところでこの子の名前は?」

 

「えっ?」

 

 二コラは固まった。そういえば、名前を決めていなかった。

 

「な、名前。なまえ、なまえ、なまえなまえナマエナマ……、マナ!」

 

「マナかい。いい名前だね」

 

 おばさんは目を細めて、即席で作った名前を褒めてくれた。二コラは腕の中でじっと自分を見つめてくる赤ん坊と目を合わせながら、マナ、ともう一度口の中で繰り返す。
 すると赤ん坊は、嬉しそうに笑った。

 

「ああ、笑ったね。なんて可愛い赤ん坊だろう。女の子かい?」

 

「そう思うでしょ? でも実は男の子なんだよ」

 

「あらそうなのかい。じゃあ将来はとんでもないイケメンになるね。あたしがもう少し若かったらねぇ」

 

 あっはっはと笑って、エルナおばさんは薬を受け取ったのちに村へ戻っていった。

 

 

 

 

「名前をつけると、情がわくっていうぞ」

 

 居間に引っ込んで、古いソファに並んで腰かけながらフレッドが言った。

 

「うん、聞いたことある。でも名前は、赤ちゃんが一番最初にもらうべきものだと思うんだよね」

 

 卵から孵った赤ん坊――マナは、ご機嫌な様子で二コラの頬をペタペタ触っている。

 

「そういえばこの子、生まれてからまだ一度もごはん食べたことないよね。何か食べさせてみようかな」

 

「前歯数本生えてるし、パンなら食べるんじゃないか?」

 

「ミルクに浸してやわらかくしてからあげてみよっか」

 

「オレ作ってくるよ」

 

 フレッドにとっては、勝手知ったるフレーベル家のキッチンである。

 

 小さく切ったパンにミルクを含ませて、二コラは抱っこしたままマナの小さな口に持っていく。最初は眉を寄せていたマナだが、仔猫みたいな舌でパンをぺろりと舐めたあと、ソロソロと口に含み、それから目を輝かせた。

 

「おいしいみたい! いっぱいあげるね」

 

「おー食べる食べる。おなか減ってたんだな」

 

 それでも胃がまだ小さいらしく、少し食べただけでげっぷが出た。それから目をとろんとさせ始める。

 

「あ、寝そう」

 

 言うが早いか、マナはこてんと眠ってしまった。
 二コラの腕の中で、ふくふくした手をゆるく握って、顔の両側に持っていっている。
 まさに天使。天使以外何ものでもない愛らしさである。二コラは卒倒しそうになった。

 

「か、かかかか可愛い」

 

「お、おおおお落ちつけ」

 

 かく言うフレッドも、あまりの愛らしさに動揺を隠せない様子である。

 

 少年少女を惑わせている張本人は、そんなことどこ吹く風で眠りに落ちていた。が、むにゃむにゃと小さな口を動かし、突然全身に力が入った。その証拠に、顔が赤くなっている。

 

「あれっ、どうしたんだろ急に」

 

 二コラが慌てるた直後、マナのお尻の方から不穏な音が発生した。その間、およそ5秒。
 固まる少年少女をよそに、スッキリした顔のマナは、またむにゃむにゃと安らかな眠りに落ちていく。

 

「……フレッド」

 

「なんだ」

 

「赤ちゃんのアレって、どう始末すればいいんだっけ」

 

「……。おむつ、はかせてなかったよな」

 

「……うん」

 

 マナを包んでいるバスタオルの惨状を思い浮かべ、どんよりとした空気が漂ったところで、救いの神が現れた。

 

「二コラ、いるかい? 赤ちゃんグッズ貰ってきたよ」

 

「エルナおばさああああん」

 

 二コラとフレッドは涙目で店先に飛んでいった。

 

 

 

 

 さすが6人を育て上げたベテランママである。エルナおばさんは手早くお下(しも)の処理をして、バスタオルを綺麗に洗い外に干してくれた。その間、マナは少しぐずったものの、またすぐに眠ってしまった。

 

 エルナおばさんの他にも、村の人たちが何人か来てくれた。ベビーチェアやベビーベッド、子ども用食器類によだれかけ、たくさんの布おむつや着替えなどを運んでくれたのだ。

 

 離乳食の作り方やおむつの替え方など、ひととおりのお世話の仕方を教えてもらい、二コラは必死でメモをした。
 エルナおばさんは心配そうに「やっぱりうちで預かろうか?」と言ってくれたが、二コラは断った。

 

「1、2週間のことだし、それにこんっなに可愛いし」

 

 何日か経てば離れ離れになることは決まっている。何しろ卵から孵った人間なのだ。研究所は絶対に興味を示すだろう。
 そう思うと、余計に離れがたかった。たった数時間一緒にいただけなのに、二コラはマナのことが大好きになっていたのだ。

 

 おばさんたちが帰った後、マナをベビーベッドに寝かせ、二コラは午後に予定していた調合に取りかかることにした。
 フレッドは「何かあったらすぐに言えよ」といって仕事に行った。彼は羊飼いなのだ。

 

 調合部屋からダイニングテーブルに道具を持ってきて、マナが見える場所で仕事を始める。
 すぴー、すぴー、と平和な寝息が聞こえる中、二コラの扱う粉薬がサラサラと音を立てた。
 とても穏やかな時間だった。二コラは幸せな気分になる。

 

(赤ちゃんがいるって、こんな感じなんだ)

 

 眠りを誘うような日差しの中、二コラは仕事に没頭していく。

 

 

 

 

 しかし、穏やかな時間が続いたのは夕方までだった。
 空の色が朱に変わるころ、それまでベビーサークルの中でボールで遊んでいたマナが、泣き出したのだ。

 

 抱っこしても、おむつを替えても、ミルクパンを与えても、全く泣きやまない。
 二コラは仕事そっちのけでマナをあやしたが、らちがあかなかった。顔を真っ赤にして泣き叫ぶマナに、最終的には首もとをひっかかれてしまう。血は出なかったが、赤い線が入った。

 

「何なの、もう」

 

 こっちが泣きたい。
 二コラは途方に暮れた。泣きじゃくるマナを抱きながら、ヨロヨロと庭に出る。

 

 夕暮れ時の涼しい風が吹いていた。夕日に染まる風景を前に、マナはピタリと泣きやんだ。キラキラした目で、庭の薬草畑や鶏小屋、周囲の芝生や木々を見回している。

 

 二コラは貰ったくつをマナにはかせて、庭に座らせた。マナは危なっかしく立ち上がり、小さな足で地面を踏んで、歩いていく。
 とても可愛らしい様子だった。二コラはしゃがみこんだままぼーっとマナを見ていた。すると唐突に、マナは転んだ。

 

 そこでまた号泣が始まった。もらった乳母車に乗せて散歩しようと思っても、抱っこがいいのかしがみついて離れない。

 

 結局抱っこしたまま家の周りを散歩するハメになった。マナは意外と持ち重みがするので、帰ってくる頃には二コラはへとへとになっていた。けれどマナは、散歩の間にスヤスヤと眠ってくれた。

 

 散々な目に遭ったけど、やっぱり寝顔は可愛い。

 

 その夜。
 離乳食を苦労して作って食べさせて、動き回るのをつかまえて、寝ぐずりするのをなだめながら添い寝で寝かしつけた。
 明日の仕込みをして、やっとベッドに入れたと思ったら今度は夜泣きである。

 

 結局二コラはほとんど眠れなかった。
 そんな日が3日続いた。

 

 

 

 

 笑った時や甘えてきた時。二コラにだけ懐いて、大好きオーラを惜しげもなく出してきた時。
 そういう時は、やっぱり天使は実在したと真顔で思うほど可愛くて、いっぱい頬ずりしてしまう。
 けれど残念ながら、マナは泣いている時やぐずっている時の方が多かった。

 

 動き回るから目が離せなくて、仕事もままならない。なんでも口に入れてしまうから、見張っていないと危ないのだ。
 店先へ出るときはもらい物のおんぶ紐で背負っているため、肩と背中がバッキバキになる。

 

 フレッドやエルナおばさんが様子を見に来てくれる時もあるけれど、フレッドは羊飼いの仕事があるし、ぜんそくの発作が出てしまう時もある。エルナおばさんはおじいさんの介護があるから、そうそう家を空けていられない。

 

 「エルナおばさん、この子つれてって」という言葉が喉もとまで出かかったが、それでもマナの笑顔を見るとその声も溶けてしまう。

 

 そんなこんなで寝不足の重だるい体をひきずって、四日目の朝。
 二コラはついに、限界に達した。

 

 

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