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「もう無理……」

 

 店先で二コラはパタリと倒れた。ちょうど訪れたフレッドが、慌てて二コラを奥の居間に連れていき、ベッドに寝かせた。ちなみにベッドは居間の窓際に置かれている。

 

 マナはベビーサークルの中で、不思議そうに二コラを見ていた。二コラは息も絶え絶えな、土気色の顔である。

 

「研究所……研究所からの連絡はまだ……?」

 

「二コラしっかりしろ。枯れ果てたゾンビみたいになってるぞ」

 

「うう、16歳女子に向かってなんてこと言うの」

 

「とにかくマナはしばらくオレのところで預かるよ。母さんと妹にマナのこと話したら、二コラが心配だから、うちで面倒見るけどって言ってたんだ」

 

 フレッドがベビーサークルからマナを抱き上げる。すると唐突に、マナは泣きじゃくりながら二コラにもみじみみたいな手を伸ばした。まるで、二コラから離されることを察したようなひどい泣きようだ。

 

 二コラの胸に痛みが走り、気づいたら首を横に振っていた。

 

「ほら、この子あたしじゃないとダメなんだよ」

 

 必死に伸ばされる小さな手に触れると、ぎゅっと強くつかまれた。
 二コラはフレッドからマナを受けとって、マシュマロみたいな体を抱きしめる。

 

「……そうかもしれないけど」

 

 フレッドは心配そうに眉を寄せた。

 

「研究所から連絡が来るまで、早くともあと5日はかかるぞ。もし向こうでの審議が長引いていたら、もっとかかるかもしれない」

 

 分かってはいるが、それでもニコラはマナと離れることなんて考えられない。

 

 けれど、この状態が続けば体を壊す可能性がある。そうなったらただでさえ傾きかけの薬師の仕事が、いよいよ立ち行かなくなってしまう。

 

「心配かけてごめんねフレッド。でもあと10日待って、それで研究所から連絡がなかったら、この子をお願いしてもいい? それまではあたしが面倒をみるよ」

 

 

 

 

 二コラの睡眠時間は大幅に削られた。自分の時間がなくなり、食事をゆっくり摂ることもままならなくなった。
 ただでさえ細かったのがさらに痩せて、目の下にはいつもクマができるようになってしまった。

 

 エルナおばさんはそんな二コラを心配しつつも、

 

「まあでも赤ん坊ってのはそういうもんだからねぇ。辛抱するしかないよ」

 

 と言う。包容力のある体でマナを抱き上げて、あやした。

 

「あんたはまだ16歳なんだし、母親の代わりをするのはキツいだろう。耐えられなくなったら見てあげるから預けにおいで。子どもってのは成長が早いんだ。あっいう間に大きくなって、こっちが寂しくなるくらい手が掛からなくなるもんさ。まあ、その前にあんたのお友達が戻ってくると思うけどね」

 

 おばさんに抱っこされているスキに薬の調合をしようと思って作業場に引っ込むと、二コラの姿を探してマナが泣き出すのである。

 

 常連客に渡す分だけの薬だけはなんとか作っておかなくてはならないため、仕事とマナ以外のことは二の次(つぎ)三の次になった。

 

 寝ている時や笑っている時は天使なのに、泣き始めると悪魔に早変わりしてしまう。たまにお尻ぺんぺんしたくなるくらいだが、マナが幸せそうに頬をすり寄せて甘えてくると可愛くてとろけてしまいそうになる。

 

 たまに「このまま泣かせておこう」として放っておくのだが、二コラの方が5分ももたない。可哀想になって、抱っこしたり食べ物を与えたり、散歩に出かけたりして、何とか笑ってくれないかと一生懸命になってしまうのだ。

 

 夜、可愛い顔をして寝るマナをそっと抱きしめながら、二コラはつかの間の眠りに落ちていく。

 

 

 

 

 研究所からの連絡は、まだない。フレッドの家にマナを預けると約束した日は、明日に迫っていた。

 

 夜の仕込みを終えて、二コラはベビーサークルで遊んでいたマナを抱き上げる。マナは嬉しそうに手を伸ばして、ふにゃりと笑った。
 窓からは月明かりが射しこんでいる。

 

 今夜は、マナと過ごす最後の時間になるかもしれない。

 

「ねえマナ」

 

 二コラはマナの顔を覗き込んだ。黒目がちの大きな瞳が、ご機嫌な様子で二コラを見上げている。

 

「あたしと離れちゃうの、寂しい?」

 

「あー」

 

 ぷくぷくしたほっぺをつんつんすると、マナは可愛らしい笑い声をあげる。
 それにつられて笑いながらも、二コラの胸は切なく締めつけられていた。
 つい零してしまいそうになる涙をこらえて、二コラは笑顔を保ち続ける。

 

「だいじょーぶ。またあたしの体力が回復したら、連れて帰るからね。ほんの少し、離れるだけだからね」

 

「あうー。あー」

 

 マナは意外とカンがいい。二コラの様子から不穏な雰囲気を感じとったのか、薄い眉毛を不快げに寄せた。泣き始めの合図である。
 二コラは慌ててマナを「高い高い」してあやし、気をそらした。

 

「あ、そういえばフレッドが珍しい薬草持ってきてくれたんだっけ」

 

 羊を散歩させていたら、見つけたのだそうだ。湯月草(ゆづきそう)といって、土瓶で葉を煮詰めて呑めば、強力な鎮痛効果をもたらす。
 しかし茎の部分は猛毒で解毒剤が存在しないので、決して口にしてはならない。

 

 湯月草の入った籠をダイニングテーブルの真ん中――ここならマナの手が届かない――に置いた。マナをべビーサークルに入れて、夕食を居間のローテーブルに並べ始める。

 

 今夜はマナの大好きなトマトのスープを作り、甘いパンケーキを焼いたのだ。飲み物はフルーツをしぼったフレッシュジュースである。

 

「でーきた! マナ、一緒に食べよ」

 

 ベビーサークルからマナを抱き上げて、二コラはソファに座る。マナは大好物ばかりの食卓に終始嬉しそうにはしゃいでいた。

 

 二コラはとても幸せな気分になって、そして明日からマナをフレッド宅に預けることを思い、切なくなるのだった。

 

 楽しい晩餐が終わり、満足したマナが眠そうに目をこする。
 濡らしたガーゼで歯磨きをしてやって、二コラはマナを抱き上げて、ゆらゆらとあやした。するとものの5分も経たないうちに、マナはぐっすりと眠ってしまう。

 

「後片付け、しないと……」

 

 テーブルにもキッチンにも、楽しい夕食のあとが積み上がっている。洗い物を明日に回すと汚れがこびりついて大変だから……と思いつつ、連日寝不足続きの二コラは、マナの寝息に誘われて、並んでベッドに横になってしまった。

 

 

 

 

 物音がして、目が覚めた。ちょっとした音ではない。何かが倒れるような、ひどく大きな物音だ。
 重たいまぶたを持ち上げる。まだ夜中らしく、辺りは暗い。
 ふと、間近にあるはずのぬくもりが消えていることに気づいた。

 

「マナ……?」

 

 呼びかけた時、さらに物音と呻き声が耳を打った。二コラは跳ね起きる、ランプに火をつけて、暗闇を照らした。オレンジ色の光の中、ダイニングテーブルのすぐ下に、マナが倒れていた。全身を突っ張らせて、ガクガク痙攣を起こしている。

 

 マナの周りには、カゴに入れてダイニングテーブルの真ん中に置いてあったはずの湯月草が散らばっていた。

 

 血の気が引いた。
 マナは目を離すと、何でも口に入れてしまうのだ。

 

「マナ!!」

 

 二コラは叫び声を上げた。マナを抱き上げ、顔を覗き込む。痙攣はまだ続いていて、瞳孔が開き目の焦点が合っていなかった。

 

 冷えた手で撫でられたように、背すじがぞっとする。

 

(湯月草の|茎《くき》は、猛毒で、解毒剤が存在しなくて――)

 

 でも、ダイニングテーブルの真ん中は、絶対に届かない場所だったはずなのに。

 

「なんで――なんで、マナ」

 

 ヒューヒューと声帯を鳴らして、マナは震えている。
 二コラはなすすべがなくて、徐々に力を失っていくマナの体が怖くて、ポロポロと涙を零した。

 

「やだ、だめ、だめだよ、マナ」

 

 火のように熱かった小さな体から、急速に体温が失われていく。
 ダイニングテーブルのそばにイスが倒れているのを見て、二コラはマナがこれを使ってテーブルによじ登ったのだと悟った。

 

 そんなこと、ついさっきまで、できなかったのに。

 

『子どもってのは成長が早いんだ』

 

 ふいに、エルナおばさんの声がよみがえる。

 

『あっいう間に大きくなって、こっちが寂しくなるくらい手が掛からなくなるもんさ』

 

 だから、ダイニングテーブルの真ん中まで手が届くようになったというのか。

 

「うそ――嘘だ」

 

 マナの、突っ張っていた手足から力が抜けて、くたりと二コラの腕に預けられる。
 焦点の合っていなかった黒目がちの瞳から、光が失われていく。

 

「やだ、いやだよマナ。ごめん、ごめんね。許して。あたしが悪かった、悪かったから、お願い」

 

 涙があふれた。二コラの全身が、巨大な恐怖に潰されていく。

 

「お願い、マナ。いかないで。お願いだよ」

 

 身を引きちぎられるような痛みの中で、二コラはマナの名を呼び続けた。
 しかしマナの体は湯月草の毒に冒され、間もなく息を引き取った。

 

 小さな鼓動が途切れ、体温が失われ、白い頬がさらに白く、開いたままの双眸から光が完全に失われたことを、知っても。

 

 それでもニコラは、マナを抱きしめて、涙を零しながらずっと、マナの名を呼び続ける。

 

 

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