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 太陽が昇った。
 ランプのオイルはとうに切れている。

 

 ダイニングテーブルのかたわらで、赤ん坊を抱きしめたまま動けない二コラの背中に、男の影が差した。

 

「二コラ=フレーベルだな」

 

 びくりと二コラの肩が震えた。聞いたことのない声だった。
 よろよろと顔を上げると、30代から40代ほどの男性が三人立っている。全員、質の良さそうなシャツの上に、白衣を羽織っていた。

 

 二コラの、泣きはらして生気の失われた表情に、彼らは一瞬たじろいだようだった。

 

「その子どもは?」

 

「……研究所の、人?」

 

 泣き涸れた声で、二コラはぽつりと聞いた。

 

「ああ、そうだ。黒い卵から黒髪黒目の赤子が孵化したという手紙を受けた。今日はその件で訪れたのだが」

 

 代表者と思われる年長の男性が、眉を寄せてマナを見下ろした。

 

「まさか、その赤子は死亡しているのか?」

 

「――」

 

 二コラは答えられない。その代わり、空気のかたまりが喉を塞いで、苦しくてうめき声を上げてしまう。
 男性は溜息をついた。

 

「なんてことだ。重要なサンプルを」

 

 サンプル。
 その冷たい響きに、二コラは凍りついた。

 

「いかが致ししますか、所長」

 

「まあいい。最悪死体でも、重要な資料にはなる」

 

「かしこまりました。おい、君。その赤子を渡しなさい。調べたいことがある」

 

「調べるって――だってマナは」

 

「いいからよこしなさい」

 

 助手と思われる一人が、無理やりマナの肩を引っ張った。力ないマナの首ががくんと後ろに折れて、二コラは悲鳴を上げる。

 

「やめてよ、引っ張らないで! マナが痛がるじゃない!」

 

「もう痛覚が機能していないだろう。死亡しているのだから」

 

 ゾクリとした。二コラは、信じられない思いで男の目を見上げた。
 無機質な目だった。マナを人間として見ていないような、冷たい目だ。

 

「……やだ、絶対に嫌だ! マナはあんたたちなんかに渡さない」

 

「我が儘を言うんじゃない。この幼体が、どれだけ貴重なサンプルだと思っているんだ」

 

「この子はきちんと土に還してあげるの。たくさんの綺麗な花と一緒に」

 

 二コラはマナを抱きこんだ。
 マナが死んだという事実すらまだ受けとめきれていないのに、この非情な大人たちにマナを受け渡すなど、絶対に考えられなかった。

 

(研究所に受け渡せば、解決するはず)

 

 そう安易に考えていた自分を、二コラは吐き気がするほど後悔した。

 

「出て行って。出て行ってよ!」

 

「そうもいかない。その幼体を捕獲するよう命じたのは皇帝陛下だからだ。これは勅令だ」

 

 マナは目を見開いた。
 勅令とは、皇帝が直接下す、最上位の命令だ。
 平民の二コラが、逆らうことなどできはしない。

 

 けれど二コラは泣きじゃくりながら抵抗をつづけた。助手らは二人がかりになって無理やりマナを取り上げようとする。

 

 そこへ、もうひとつの声が投げこまれた。

 

「おまえたち、何をやってる!」

 

 フレッドだ。代表者を押しのけて、助手たちを二コラから引き離す。若い羊飼いというだけあって、腕力では年かさの研究員たちを上回っていた。

 

「その格好、幻獣研究所の方たちですか。突然現れて女の子相手に無理やりな行為をするなんて、いったい何を考えてるんですか」

 

 口調はていねいだが、燃えるような怒りがこめられている。
 研究員らは怖気づく様子をみせたが、代表者が白衣のえりを直しつつ、セキ払いをした。

 

「それは国家機密だ。詳しいことは説明できない。我々はその幼体を引き取りに来たのだ」

 

「幼体……? マナのことですか」

 

「ああ、そうだ。その死体だ」

 

「死体?」

 

 フレッドは訝しげに眉をひそめた。そして、二コラの腕の中にいるマナを見て、顔色を変えた。

 

「これは――二コラ、マナは?!」

 

「フレッド……フレッド」

 

 二コラは泣きじゃくりながら、首を横に振った。フレッドは床に片膝をついて、テーブルの下に散らばる湯月草を目に止めたようだった。

 

「フレッド。マナが、ちょっと目を離したスキにテーブルによじのぼって」

 

「まさか、オレが摘んできた湯月草を」

 

 フレッドが絶句した。
 彼に話したことで、また壮絶な悲しみが二コラの胸に迫ってくる。

 

「いいからその幼体を渡しなさい」

 

 研究員たちの手が伸びる。我に返った様子のフレッドが、二コラとマナを庇うようにその手を払った。
 代表者が、忌々しげに舌打ちした。

 

「仕方ない。君たち、これを見なさい」

 

 白衣の内側から彼が取りだしたのは札束だった。二コラは言葉を失った。フレッドも同じようだった。

 

「いくら欲しい。その幼体を、言い値で買い取ろう」

 

「おまえ――おまえたち、なんて最低な」

 

 怒りでフレッドの声が震えている。
 二コラはもう現実を見たくなくて、マナを抱きしめるように顔をうずめた。

 

「マナ」

 

 震える涙が、物言わぬマナの頬に落ちる。
 それがマナの小さな口の中に滑り落ちた、その直後――

 

 室内に、暗闇が落ちた。

 

 

 

 

 今日は晴れていた。まだ午前中のはずだ。
 それなのに室内は暗い。理由はすぐに知れた。

 

 青空を侵食するように、暗雲がむくむくと立ちこめて、太陽を覆い隠していった。
 夕刻のような薄暗さの中、雷鳴が轟き、突如として豪雨が地面を打ち鳴らした。

 

「な、なにが起こっている」

 

 研究員たちが動揺し始めた。フレッドは二コラとマナを庇うように抱き寄せる。
 その瞬間、稲光(いなびかり)が空を割った。二コラはそれを、窓から見た。雷光はさながら、巨大な竜が空から駆け降りてくるようにも見えた。

 

 雷が落ちたのは、庭の木だった。
 耳をつんざくような轟音に、皆が耳を塞いだ。木は発火して、全身を炎に包まれる。

 

 フレッドは突如変貌した天空を窓越しに見上げて、茫然とした表情になった。

 

「いったい、何が起こってるんだ」

 

 その時、信じられないことが起こった。
 二コラの腕の中で、マナがぴくりと動いたのである。

 

「……え?」

 

 二コラはマナを見下ろした。
 そして悟った。
 動いたのはマナの体ではない。マナの髪だ。

 

 漆黒の髪が蠢きながら伸びてゆき、血の気の失せたマナの体を包むように巻きついていった。
 その髪は、マナを抱く二コラの腕をも取り込もうとしているようだった。

 

 二コラは茫然と、つぶやいた。

 

「マナ……?」

 

「手を離せ、二コラ!」

 

 フレッドが無理やり二コラの腕を漆黒の髪から抜き取った。
 マナは床に落ちることなく、宙に浮きながら髪のベッドに包まれていく。それはまるで、繭(まゆ)のようだった。

 

 全員が声も出せず、ただ茫然と、目の前の光景を見ていた。
 豪雨と雷が天と地を揺らすその間で、神秘的な繭はゆっくりと回転していく。

 

 しばらくののち、繭は綺麗な円錐形(えんすいけい)になった。それが徐々に膨れ上がっていく。
 二コラと同じくらいの大きさまで膨れたのち、少しずつ髪がほどかれ、もとの短さに戻っていった。

 

 そこから現れたのは、14~5歳ほどの、息を呑むほど美しい少年だった。
 艶やかな漆黒の髪、陶器のように瑕ひとつなく、雪のように白い肌。切れ長の双眸は伏せられ、長い睫毛が頬に陰影を落とす。

 

 その双眸が、開かれた。
 至上の宝石のように美しく光る、金色の瞳だった。

 

 二コラたちは皆、言葉もない。
 少年は当然のごとく全裸だったが、二コラはそんなこと頭にも入らなかった。

 

 彼は近くにあったブランケットを体に巻きつけて、二コラの前に片膝をつく。
 それから綺麗な声で、言った。

 

「泣いてるの、母さん」

 

 綺麗な形の眉を寄せながら、少年は主人公の頬を両のてのひらで包む。

 

 ――温かい。
 冷たくない。

 

(生きてる)

 

 それから少年は――マナは、一段低い声で、尋ねる。

 

「……誰に泣かされたの?」

 

 あまりのことに、二コラの頭はついていけない。マナの問いかけに答えられないでいると、背後で研究員の代表が、震える声で言った。

 

「間違いない。『あれ』だ」

 

「すぐに捕獲します!」

 

 我に返った二人の助手が、マナを取り押さえようとする。代表が慌てて「待て」と制止の声を上げた時、マナが二コラを庇うように前に出た。

 

「母さんを泣かせたのは、おまえたちかな」

 

 そうして薄く笑った。

 

 次に、マナが目を眇(すが)めて研究員らを見据えた瞬間である。彼らは頭を抱えてうめき声を上げ始めた。

 

「頭が……頭が割れそうだ……!」

 

「うああっ、バケモノが、バケモノがたくさん襲ってくる!」

 

「やめろ、助けてくれええっ」

 

 彼らは何もない空中を見て怯え、逃げ惑っている。代表者は頭を振って、息も絶え絶えにマナを睨み上げた。

 

「貴様、幻術を使うのか。ええい、ひとまず退散だ!」

 

 研究員たちはほうほうの体(てい)で逃げていった。

 

 

 

 

「悪者は追い出したよ。もう大丈夫だから、泣かないで」

 

 再び床に片膝をついて、マナは二コラを慰める。
 二コラは茫然と、目の前の美しい少年を見上げた。彼は二コラよりも少しだけ小柄だ。二コラの隣でフレッドも、言葉を失っている。

 

「マナ、なの……?」

 

「うん。僕自身、どうしてこういう姿になったのか分からないんだけどね」

 

「よくわかんないけど……びっくりした」

 

「驚かせてごめんね」

 

「本当にびっくりした。だって死んじゃったかと思ったから……」

 

 マナは二コラの涙を指で拭った。けれど二コラの目からは涙が次々にあふれてくる。

 

「ごめんね、マナ。あたし湯月草を出しっぱなしにして、マナを危険な目に遭わせちゃってとめんね」

 

 マナは二コラを優しく抱きしめた。

 

「大丈夫、僕はどこも悪くしてないよ。こうして元気でいられるのも、みんな母さんのおかげなんだ。ありがとう」

 

 母親らしいことなんて、全然できなかったのに。
 それ以降は言葉にならず、二コラはマナの胸でずっと泣き続けた。

 

 

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