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 翌朝は、綺麗に晴れた。
 薄い色をした秋の空から、黒い竜翼が舞い降りる。

 

「おはよう、ニコラ」

 

「おはようマナ!」

 

 ニコラの家の庭である。見送りについてきたフレッドは、ニコラの嬉しそうな顔を見て、小さく笑みを浮かべたようだった。

 

「ニコラ、雷大丈夫だった?」

 

「怖かったけど、がんばって耐えたよ」

 

 ニコラは笑った。けれど、マナはニコラの小さな体をそっと抱き寄せる。

 

「そばにいられなくてごめん」

 

「えっ、あ、だ、大丈夫、大丈夫だから!」

 

 ニコラはとたんに慌て始めた。
 澄んだ秋の風に、マナの、ひと纏めにした黒髪がそよぐ。シルクのような肌触りのそれが、ニコラの桃色の頬をくすぐるから、ニコラは余計に慌ててしまう。

 

 そんなニコラをよそに、マナはフレッドに目を向けた。

 

「昨夜はありがとう。ニコラがお世話になったね」

 

「気にしないでくれ。オレも楽しかったし。またいつでも預かるよ」

 

「……」

 

「……」

 

 ニ人の微妙な沈黙に、首をかしげるニコラである。

 

 それからニコラは、マナに抱き上げられて、浮遊大陸の屋敷に戻った。
 蓮の池のある中庭に降り立ったマナは、しかしニコラを下ろさないまま回廊に入ろうとする。

 

「ねえマナ、あたし重いでしょ。歩くから下ろしていいよ」

 

「重くないよ。もう少しニコラを抱っこしたいだけ。だめかな」

 

「だ、だめじゃないけど」

 

 こんな綺麗な顔で可愛く微笑まれたら、ニコラは動揺してしまう。
 それなのにマナは、朱塗りの柱に背をもたせて立ち止まり、ニコラを優しく見下ろした。

 

「会いたかったよ、ニコラ」

 

「う、うん、あたしもマナに会いたかったよ」

 

 しどろもどろにニコラは答える。マナは愛しげに笑みを深くして、ニコラの赤くなった頬に唇を寄せた。
 やわらかな弾力が、押し当てられる。

 

「ま、マナ……っ」

 

「可愛い、ニコラ」

 

 形のいい唇が、ニコラのまぶたやこめかみ、小さな鼻先に落ちる。あごの先をぺろりと舐められて、それからマナが、熱を帯びた声で囁くように言った。

 

「好きだよ、僕のニコラ」

 

 抱く腕に力がこもる。ニコラの全身がきんちょうした。マナが少しだけ顔をかたむけて、唇と唇がそっと重なろうとした瞬間だ。

 

「……イイ雰囲気の中……失礼いたします……」

 

 涼やかで愛らしい声が、突然割り入った。

 

 ニコラは思わず両手で口もとを押さえ、マナは顔を上げた
その時マナが小さく舌打ちをしたような気がしたが、きっとニコラの気のせいだろう。

 

 割り込んだ声の主は、腰の辺りまでまっすぐに伸ばした青い髪が印象的な美少女だった
 銀色の長衣に身を包み、回廊の先に静かにたたずんでいる。

 

 両腕にニコラを抱えたまま 、マナが低い声で言った。

 

「誰だ?」

 

 美少女はマナの前でひざまずき、彼の袍の裾を手に取った。
 春先の花びらのような唇で、そっと布に口付ける。

 

 ニコラはドキリとして、マナの胸もとをとっさにつかんでしまった。

 

「……マナ殿下の……お相手をしに参りました……」

 

 独特の間合いで喋る少女だ。
 彼女の言葉に、マナの眉間に険がこもる。

 

(お相手?)

 

 ニコラは意味をつかめなくて、首をかしげた。

 

「……申し遅れました……。わたしは青竜が一、鈴懸(すずかけ)と申します……」

 

「鈴懸? ああ、桔梗(ききょう)の従妹(いとこ)の」

 

 マナがぽつりとそう言って、考えるように沈黙した。

 

(桔梗って、桂花と椿さんの仲間の……)

 

 確か、マナの側近のひとりだ。

 

 鈴懸という美少女は、ひざまずいたまま再び口を開く。目を伏せているから、長い睫毛が陶器のように白い頬に影を落としていた。

 

「……竜族は……子どもができにくい種族……。だからオスが愛人を作るのは……普通のことです……」

 

「あっ、愛人?!」

 

 ニコラは目を丸くした。予想外すぎる言葉だった。
 驚くニコラの肩を、マナはなだめるように撫でた。鈴懸は続ける。

 

「……メスが愛人を作ってもいいのですが……竜族のオスは独占欲がとても強いため……命に関わることがあるからおすすめしません……」

 

「い、命って」

 

 ニコラは動揺してマナを見上げた。マナは穏やかではない表情をしていたが、ニコラの視線に気づいたのか、すぐに微笑みを浮かべる。
 それから鈴懸に向き直った。

 

「僕はニコラ以外必要ない」

 

 ニコラはどきんとした。しかし鈴懸は、人形のように表情を動かさず、

 

「……聞きしに勝るご寵愛……素晴らしいことと存じます……。それでは殿下……今宵、わたしを寝所へお招きください……」

 

 鈴懸なる美少女は、人の話を聞かないタイプのようだ。

 

(寝所、って)

 

 さすがにその意味は分かる(具体的な知識はあまりないが)。ニコラは混乱してしまって、耳が熱くなった。
 一方で、マナは冷静な声音だ。

 

「僕は妻以外と夜を過ごすつもりはない」

 

 ――妻。
 その言葉に、ニコラの鼓動はさらに早まった。動揺を露わにするニコラを、鈴懸は不思議なものを見るような目で、ぼーっと見つめている。

 

 マナが彼女から踵を返しかけた時、鈴懸の後ろからひとりの青年がやってきた。青い髪の、美しい青年。青竜の桔梗(ききょう)だ。

 

「……なにしてるの、鈴懸……」

 

「……桔梗、ひさしぶり……」

 

 ふたりがこうして並ぶと、面影が似ている。無表情なところもそっくりだ。

 

「……マナ様の愛人に……なりにきたの……」

 

「……それは……むりだと思う……」

 

「……大丈夫……成せばなる……」

 

「……でも……むりだと思う……」

 

(……なんだろう……このふたりの会話は……)

 

 気づいたらニコラにもうつっていた。

 

「……とにかく……今夜わたしは、マナさまの寝所にもぐりこむから……桔梗、手引きよろしく……」

 

「……ええ……いやだなぁ……」

 

(……勝手なことばっか……言ってるなぁ……)

 

 ニコラが青竜ワールドに引きずり込まれている一方で、マナがひとつ溜息をついた。それでニコラは、ハッと我に返る。

 

 マナは秀麗な面差しに苦笑を浮かべながら、桔梗に言った。

 

「ご苦労だったね、桔梗。この件についてきみが気に病むことはひとつもないよ」

 

「……うん分かった……。ほら鈴懸……帰ろ……」

 

「……でも……竜王陛下に頼まれたことだし……」

 

「父上は、まったく」

 

 マナは疲れたようにため息をついた。
 それから優しい表情で、ニコラを見下ろす。

 

「ニコラ。今夜、僕の寝所においで」

 

「へっ?」

 

 まぬけな声が出てしまった。
 ニコラがそれ以上の反応を返すより先に、鈴懸が首をかしげながら言う。

 

「愛人は……正妻が呼ばれる夜は遠慮するのが……マナー……」

 

「きみが常識的な見識の女性で助かるよ」

 

 マナはいつもどおりの穏やかさで、鈴懸にそう言った。

 

 

 

 

(――どうしよう)

 

 夜、湯あみをすませたあと、いつもと同じサラリとした生地の夜着に袖を通そうとしたら、突然女官たちがやってきて、別の夜着に着替えさせられてしまった。

 

「ねえ、これ、透けてない?」

 

「これくらいがちょうどよいのです」

 

 なぜか女官たちの顔が、臨戦態勢のようにギラギラしている。

 

 ニコラの戸惑いをよそに、女官たちはテキパキとニコラの身づくろいを進めていく。
 短い髪には初々しい色合いの花飾りが編まれ、耳もとに甘い香りのする香油を擦りつけられた。

 

「奥方様は肌がとてもお綺麗でいらっしゃるので、お化粧は必要ございませんね」

 

「お湯上がりでツヤツヤ! マナ殿下もさぞお喜びになりますわ」

 

「そ、そうなの?」

 

「ではこれから閨(ねや)の作法をお教えします。よろしいですか、奥様」

 

「えっ、作法なんてあるの? イヤだなぁ。堅苦しいことニガテなんだけど」

 

 ニコラは女官からひと通りの作法を教わった。

 

「――ムリ!!」

 

 ニコラはすぐさま言い切った。すでに涙目である。

 

「ムリムリ! だってあたし、マナとちゅーすらできないし!!」

 

「まああ奥方様!」

 

「なんてこと!」

 

「そのようなありさまでは、殿下の御子をいつまでたっても為せませんわ!」

 

「このままではあのオンナ……いえ、青竜・鈴懸様に先を越されてしまいますわ!」

 

「正妻は! 唯一無ニのご寵姫は! ニコラ様だけなのに!」

 

「んなこと言ったって……」

 

 女官らの勢いに、ニコラはたじたじである。彼女たちの目が、いよいよ据わり始めた。

 

「いいですか奥方様。高貴なる殿方のご寵愛は、儚いもの」

 

「いつマナ殿下の目が外に向くか、分かりません」

 

「だからこそ、寵を得ている間に御子を為し、奥方様の地位を固めておくのです」

 

「マナが、他の子を好きになっちゃう時がくるかもしれないってこと……?!」

 

 ニコラは多大なるショックを受けた。女官たちはギラついた目でうなずく。

 

「王子殿下の寵は春の夜の夢。であればいまこの時に、儚く酔うがご寵姫の幸い」

 

「ごめん、ムズかしくてよく分かんない」

 

「とにかく行きますよ、奥方様!」

 

「やっ、やだ、ムリだってば!」

 

「観念おし!!」

 

 ニコラは引きずられるようにして、マナの寝所に放り込まれてしまった。

 

 

 

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