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 マナの寝所へ、文字通りゴロゴロと転がり込んだニコラは、「いたたー」とうめきながら顔を上げた。
 すると、目の前には文机(ふづくえ)があり、椅子に腰かけているマナが、驚いたような顔でニコラを見下ろしていた。

 

「びっくりした。大丈夫、ニコラ?」

 

「う、うん、一応だいじょーぶ」

 

 差し出された手につかまって、ニコラは立ち上がった。しかし、着慣れない夜着のせいで裾を踏んでしまい、よろけてしまう。

 

「ひゃあっ」

 

「おっと」

 

 ぽすん、とニコラの体がマナの胸の中におさまった。
 マナの夜着は漆黒のシルクサテンで、銀色の腰帯(こしおび)を巻いている。昼間よりも胸もとをくつろげているせいか、ニコラの頬にマナの胸板が直に当たっていた。

 

 思いのほか固くてなめらかな肌に、ニコラの体温がいっきに上がる。

 

「ご、ごごごめん……!」

 

 ニコラは勢いよくマナから離れた。マナはニコラの慌てっぷりにきょとんとした表情を見せたが、やがて自嘲めいた笑みに変える。

 

「取って食べたりしないから、そんなに怖がらなくていいよ」

 

「こ、怖がったりなんか、してないよ」

 

 と言いながらも、ニコラの目は泳いでいる。まともにマナの方を見られない。

 

(だって、マナ、なんだかオトナっぽい)

 

 艶やかな黒髪に、燭台の光が差す。
 金色の瞳は、窓から降りる月の光に溶けるようだ。

 

「あ、あたし、明日、朝早くって」

 

 耐え切れなくなって、ニコラが早口で言った。

 

「流行り病の薬を、五軒に届けなくちゃいけなくて。準備もあるし、もう部屋に戻らないと」

 

「ああ、待ってニコラ」

 

 踵を返しかけたニコラの肩に、ふわりと毛布が掛けられた。

 

「その格好で、屋敷の中をウロついたらだめだよ」

 

 マナは優しく微笑んでいる。
 その格好? と首をかしげかけて、ニコラは自分がうっすら透けている夜着を着ていることに気づいた。

 

「こっ! これは! 女官たちがよってたかって!」

 

「うん、いいよ。だいたい分かってる」

 

 マナは笑いをかみ殺すようにして、ニコラの髪に触れた。短い栗色のそれには、花飾りが編み込まれている。

 

「すごく可愛い。この夜着のことはまあ、おいておくとして」

 

 マナは少しだけ腰をかがめて、ニコラの耳もとに顔を寄せた。

 

「ま、マナ」

 

「いい香りがする。なにかつけてもらった?」

 

「う、うん、そうみたい」

 

 マナの体温を肌のすぐ近くに感じて、ニコラは目が回りそうだ。
 するとマナは、スっと体を離してからとある提案をした。

 

「ねえニコラ。今夜が綺麗な満月の日だって知ってた?」

 

「そうなの? バタバタしてて気づかなかった」

 

「見に行こうか」

 

 マナは大きな窓を開け放ち、ニコラに白い手の平を差し出した。

 

「おいでニコラ。いっしょに夜空を散歩しよう」

 

 

 

 

 マナの翼は、夜空より濃い。風を切り、また風を孕んで、翼はゆっくりと羽ばたいていく。

 

「きれー……」

 

 マナに横抱きにされつつ、ニコラは満天の星空を見上げていた。まんまるに整った黄色い月は、愛嬌があって可愛い。

 

「夜にニコラと飛ぶのはニ度目だね」

 

「うん。前回は、浮遊大陸に初めて来た時かな。あの時は空を見る余裕なんてなかったし」

 

「そうだね、僕もだ」

 

 そこでマナは、空中で立ち止まりつつ、クスクス笑った。

 

「だってまさか、ニコラが竜神祭に来るなんて思わなかったから。本当に行動的だね、ニコラは。元気いっぱいだ」

 

「マナだって、王子様のクセにたった一人で薬草園を耕してるなんておかしいよ。すっごいイケメンがいるって噂になって、人だかりできてたし」

 

 ニコラもつらて笑ってしまう。

 

「マナはいっつも、そういうところが無防備なんだよね。ほら、少年期になってから初めて村に行った時も、女の子たちにきゃあきゃあ言われてたでしょ」

 

「そうだったっけ。ニコラこそ、いつもフレッドと一緒にいて、彼の前で転んでぱんつ見られても全然気にしてなかったじゃないか」

 

「えー、そんなことなかったよ。マナの記憶違いだよ」

 

「いや、あった。僕はしっかり覚えてる」

 

「おかしいなぁ。あったかな、そんなこと」

 

 ニコラがしきりに首をかしげていると、視界の端をひとすじの流れ星が走っていった。「あ、流れ星」と口にしようとした時、マナの唇がニコラの頬に押し当てられた。

 

 あたたかくてやわらかな感触に、ニコラの肩が小さくはねる。

 

「僕は竜だ。人間じゃない」

 

 マナの金色の瞳は、夜の中でひときわなめらかに輝いている。まさに人外の美しさだった。

 

「人間じゃないから、ある程度のがまんはきく。少なくともニコラ、きみを怖がらせて泣かせない程度には」

 

「がまん……?」

 

 聞きかえすニコラに、マナは眼差しをゆるめた。

 

「待てる、ということだよ。僕も子は欲しいけれど、急いでいるわけじゃない。周りがなにを言おうが、僕が一番大切なのはニコラだから」

 

 ニコラは目を見開いた。とたんに鼓動が早まって、ニコラは毛布に包まれた胸もとをきゅっと握る。

 

 ――けれど、とマナは続けた。

 

「竜の独占欲は、人の子より強い」

 

 マナの笑みが、甘い優しさを深めた。
 語られた言葉とのギャップに、ニコラはどきりとする。

 

「僕はね、ニコラ。きみが僕以外の誰かに笑いかけるときですら、胸がザワつくんだよ」

 

「笑う、だけで?」

 

「ニコラは可愛い顔で笑うから」

 

 ニコラの目の端に、キスが落ちる。
 星空が済みきって、マナの綺麗な顔を、さらに美しくしていた。

 

「可愛い、だなんて。あたしなんかより、マナの方がずっと――」

 

「僕は元気いっぱいのニコラを縛りつける気はないよ。でも、他の男といる時は、注意して」

 

 マナは笑っている。
 けれどニコラはなんとなく嫌な予感がして、顔が引き攣ってしまった。

 

「注意って、どうやってするの?」

 

「好きだよニコラ」

 

 質問を見事にスルーして、マナはニコラの頬に口付けた。
 星の色に似た金色の瞳。

 

「大好きだよ、僕のニコラ」

 

 それからマナは、白皙の面をニコラのそれにそっと近づけて、彼女のやわらかな唇にキスをした。

 

 

 

 

 その夜、ニコラはマナのベッドで眠った。
 昔みたいに、ひとつのベッドで身を寄せ合って、静かに眠った。ベッドに入ってすぐに、ニコラは睡魔に襲われた。

 

 昔とひとつだけ違うのは、マナがニコラより大きくなってしまったことだ。
以前、あの小さな家で、マナを抱きしめていたのはニコラだった。けれどこの夜は、マナがニコラを腕の中に抱いていた。

 

(男の人、なんだ)

 

 今まで考えないようにしてきたことを、ニコラはきちんと感じとる。

 

 少し前までのマナは、優しくて、可愛くて、でも今のマナはちょっとだけ違う。
 ほんの少しだけ。でも、もうもとに戻れないくらい。

 

 

 

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