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 浮遊大陸にやっと戻れたのは、その日の夕方だった。
 慣れないことをして疲れきったニコラは、マナの書斎にある長椅子に、ぐったりとしている。

 

「はー疲れたー……。マナって人にあんな感じで命令するんだ……」

 

 マナは調合レシピをめくりながら、苦笑する。彼は文机の椅子に腰かけていた。

 

「あんな感じって? 偉そうだった?」

 

「すっごーーく偉そうだった。ザ・偉い人って感じだった」

 

「ハッタリだよ。実際は偉くもなんともないしね」

 

 レシピをローテーブルに置いて、マナは立ち上がった。軽い動作でニコラを抱き上げて、そのままソファに腰を下ろす。

 

「でもこれで明日から店が再開できるよね?」

 

「……あのさあマナ。最近スキンシップ多くない?」

 

「夫婦だから普通だよ。それよりも、このレシピにフレッドのぜんそくの薬は載ってた?」

 

「うーん、載ってるには載ってるけど、いざ目の前にすると、これ使っちゃっていいのかなぁって思えてきたんだ。これ、他の薬師から半強制的に集めたやつだよね。あたしが勝手に使ってもいいのかなって。――あ、ごめんね。もちろんマナには感謝してるんだけど」

 

「なるほど。ニコラは真面目だね」

 

 マナは首をかしげつつ、テーブルの上の紙束を見下ろした。ざっと100枚以上はあるだろう。

 

「誰が考案したレシピでも、薬は薬なんだから、それで人が助かるなら使ってもいいと僕は思うんだけど」

 

「それはそうなんだけど……」

 

 ニコラは考えこんだ。しばらくして、パッと顔を上げる。

 

「そうだ! このレシピ、あたしの知り合いの薬師にも回すことにする!」

 

 マナはまばたきをする。

 

「薬師みんなで共有するってことと?」

 

「うん、知り合いの薬師だから10人くらいかな。でも、その子がまた知り合いに回していけば、結構な数の薬師でレシピを共有できるようになるよね」

 

「ああ、そうだね。自分だけの薬にせずに、みんなに回すのか。ニコラらしいよ」

 

 マナは優しく笑った。

 

「僕にも手伝わせて。薬師の知り合いのところにニコラを運ぶよ」

 

「ありがと、マナ!」

 

 ニコラはマナに抱きついた。

 

 

 

 

 さて、翌朝である。
 マナは背に竜翼(りゅうよく)を伸ばした。ニコラを横抱きにして、青空を飛翔する。

 

「まずはフレッドにぜんそくの薬を渡すんだったよね」

 

「うん、そう。それから各地の薬師のところに行こ」

 

 フレッドに薬を渡し、ニコラは状況を説明した。

 

「知り合いの薬師たちにレシピを渡す? ああ、それはいいかもしれないな。客からしたら、いろんな種類の薬がどの薬師からでも買えるのは嬉しい限りだよ。――ところで」

 

 フレッドは眉をひそめた。

 

「レシピを渡す薬師の中には、あいつもいるのか? 隣の村に住んでる、あの薬師だよ」

 

「隣村? 誰だっけ」

 

「アガットだよ」

 

「ああ、アガット! うん、もちろん渡しに行くよ。アガットとはめちゃくちゃ仲いいし」

 

「やっぱりそうか」

 

 フレッドは苦い表情で、マナにこっそりと耳打ちした。

 

「マナ、いいか。アガットには気をつけろよ」

 

「僕もなんとなくそんな予感はした」

 

「ニコラはあんなふうだからそんなにモテないが、刺さるヤツにはぶっすり刺さる。アガットはその典型だ」

 

「そいつにレシピ渡しに行くの阻止できないかな」

 

「それは無理だな。ここから近いし、ニコラが『一番の薬師仲間』って言ってる。ま、黒竜のおまえがひと睨みすれば大丈夫だと思うけど」

 

「聞き分けのいい薬師ならいいんだけど」

 

 ニコラが「マナ、行くよー」と呼んでいる。
 マナは翼を広げて、ニコラに抱き上げた。ニコラが書いた地図のとおりに飛び進む。

 

 薬師たちは100枚以上に及ぶレシピに驚きの顔を見せた。しかし、みな薬研(やっけん)のやりように怒りを感じていたようで、「ありがとう」と嬉しそうにしていた。

 

 さらに、彼ら、彼女らの持つ秘匿のレシピをニコラに渡してくれた。
 ニコラは目を丸くして、

 

「いいの、これ。大事なレシピだよね」

 

「ニコラががんばって薬研から取りかえしてくれたんだもん。これくらいさせて。このレシピは、他の薬師たちにも渡していいから」

 

 ニコラは目を潤ませて「ありがとう!」と喜んだ。
 マナは彼女の隣で、ただ感嘆していた。

 

(やっぱりニコラはすごいな)

 

 ニコラの善意が、さらなる善意を生む。彼女は自分のできる最大限で、目いっぱい動いて、周囲に良い影響を波紋のように広げていくのだ。

 

(僕もその影響を受けたひとりだけど)

 

「さ、いこっかマナ! 次の薬師で最後だよ!」

 

 最後の薬師はくだんの少年、アガットだった。
 薬師はたいてい、村はずれに住んでいる。森や清流に近い方が、薬の材料が手に入りやすいからだ。

 

 薬草園となっている庭に、マナは静かに舞い降りる。

 

「アガットー! いるー?」

 

 扉をノックをして、ニコラが呼びかける。するとドタバタと騒がしい音がして、勢いよく扉が開いた。

 

「ニコラ! 久しぶりだな!」

 

 赤茶けた髪を短く切った少年が現れた。それはもう笑顔満開で、ニコラを見下ろすさまはとてつもなく嬉しそうである。ひと目見たらだれでも「こいつニコラにベタ惚れだな」と分かるレベルだ。

 

 しかし、当のニコラはまったくそのことに気づいていないようだ。

 

「久しぶり、アガット。急にごめんね。今時間ある?」

 

「あるある! なんだよニコラ、来るならオレ、おまえのためにうまい菓子でも焼いておいたのによ」

 

「あーっそうだった、しまったなぁ。アガットのケーキすっごいおいしいもんね」

 

 ニコラが明るく笑うから、アガット少年の耳が赤くなった。

 

「お、おう! おまえのためだったら、今からでも作るぜ。おまえ、林檎好きだったよな。ちょうどいい具合に熟したのがあるから、林檎のタルトでも作ってやるよ」

 

「ほんと?! うれしー!」

 

 飛び上がって喜ぶニコラに、アガットはとてつもなく嬉しそうだ。
 ニコラの短い髪をどさくさに紛れて撫でつつ、

 

「おまえ甘いもの好きだもんな。クリームたっぷり入れてやるな」

 

「うん! ありがとアガット!」

 

「ニコラはいつも元気だから、オレも元気出るよ。ほら、前にオレが薬の調合に失敗して調合室黒コゲにしちまったときあったろ。あの時、ニコラが明るく笑って励ましてくれただろ」

 

「ああ、そんなことあったね」

 

 アガットはとけるような笑顔になった。

 

「あの時さ、オレすっげえ落ちこんでたんだ。ずっと前の代からあった器具を全部ダメにしちまってさ。もう薬師なんて続けられねえって思ってた。でも、おまえがいつも通りの笑顔で笑うから、元気づけられたんだ。おまえのおかげだよ、ニコラ」

 

「そんなこと言われたら嬉しくなっちゃう」

 

 ニコラは明るく笑っている。

 

「……」

 

 マナはだんだん自分の笑みが薄ーくなっていくのを感じた。

 

 

 

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