ネット小説 【ハピネス】 (1)

ネット小説【ハピネス】 【2】

 

「……あやめ」

 

 俊一の大きなてのひらが、あやめの手に重なった。
 だれもいない図書室。運動場から部活動の声がかすかに聞こえてくる。
 日差しのあたたかな、冬の午後。

 

「俊ちゃん……?」
「あやめ……、ごめん。オレ、もう、これ以上ムリだよ……」

 

 あやめはゆっくりと、ノートから目を上げる。長い髪がさらりと落ちた。
 制服を押し上げる、ふっくらした胸。人形のように愛らしい面。
 俊一の目が、切なげに細められる。

 

「オレ……、これ以上、がまんできない」
「俊ちゃん……?」
「あやめ」

 

 俊一の指が、誘われるようにあやめの頬へ伸びる。瑕ひとつない、白い肌。
 そっと触れると、ぴくりと小さく、華奢な体が震えた。

 

「あやめ……」

 

 潤みをおびた、あやめの瞳。それを切なげに見つめながら、俊一は頬へ触れた指で、軽くつまんだ。
 むに、と。

 

「どうして鎌倉幕府を作ったのが卑弥呼なのか、教えてくれないか?」

 

 にこりと笑う俊一のこめかみに、怒りマークがはっきりと浮かんでいたのは、あやめの気のせいではなかった。

 

 

 

 

「え、ええっ? ち、ちがうの?」
「……。よし、じゃあこれは大目に見るとしよう。けれど、あっちどうしてもありえない」
「これって……、ええと、問5、鎌倉幕府ができたのは何年か。答え、645年」

 

 問題文と、自分のノートを見比べて、必死で答えている。
 俊一は頭痛を覚えながらも、尋ねた。

 

「なんでそうなるんだ?」
「語呂で覚えた。ムシゴロシ」
「ろくでもない覚え方な上に、間違ってる。645年は大化の改新だろ? もっと前の時代だよ。いいか、あやめ。『いいくにつくろう鎌倉幕府』だ。いくらあやめでも聞いた事あるだろ。というか昨日オレが教えたばかりだろう?」
「そうだっけ」
「……」

 

 あやめはきょとんとして俊一を見る。日本人形のように可憐な面も、中身を知れば、ブタに真珠。知能と外面がはなはだしく吊り合わない。

 

「でも俊ちゃん、これ確認テストなんでしょ? あたしが全部解き終わるまで、俊ちゃんは黙ってるって言ってたのに、横槍ずるい。厳禁」
「問2の、『平氏』を『兵士』と書いた時点で、オレの我慢はマックスだったんだ。今までよくもったと思うよ」
「全然もってない。今、問6だし」
「そうだな。そして現時点で0点だ」
「俊ちゃんにはがっかりだよ……」

 

 深々と、あやめは息をつく。

 

「わかってるよね。4歳の時に決めたルール。約束を破ったら罰ゲーム。なにがあっても、罰ゲーム」
「ええ……?!」
「あたしの言うこと、何でも聞く」

 

 心外にすぎる展開に、俊一は開いた口がふさがらない。

 

「ちょっと待つんだ、オレは自分の受験勉強ほっぽって、あやめのテスト勉強に付き合ってるんだよな? 貴重な時間を潰して、あやめの赤点対策してやってるんだよな? そのへん分かってるよな? 受験生の追い込み時期の意味、分かってるよな」
「うんわかってる。わかってるよ。だから、残念なんだよ、とっても」

 

 深刻に、あやめは息をついた。

 

「でも約束は約束だから……。あたし、俊ちゃんを約束破りのサイテー男にしたくないんだよ」

 

 潤んだ瞳で見つめられて、不覚にも鼓動が高鳴った。そうだ、あやめには武器がある。この可憐さに、何度意思を挫かれてきたことか。
 俊一はしばらく己と戦ったが、やがてあきらめて苦笑した。

 

(仕方ないか) 

 

 あやめは2つ下の幼馴染だ。妹のようなものだ。一人っ子で、両親に溺愛されている自分が、わがまま大王に育たなかったのも、あやめのおかげなのだ。
 自分が甘やかされる分、あやめを甘やかす。そのおかげであやめがわがまま女王になってしまったという説もあるが、できれば否定したい。

 

「俊ちゃん、だめ……?」
「わかったわかった。いいよ。テスト勉強、今回頑張ってるし、ご褒美の意味もこめて」
「ほんとに?」

 

 ぱ、とあやめの顔が明るくなる。中学生になって、綺麗になっても、笑顔だけは昔と変わらない。あと、泣き顔も。
 そういえば、最近は、自分の前で泣かなくなった。

 

「じゃあ、来週の日曜、一緒にディズニーランド行こ!」
「……日曜?」

 

 どきり、と心臓が鳴った。
 脳裏を、一人の少女がよぎる。

 

「この前シーに行ったら、今度はランド行きたくなっちゃって。ピーターパンのりた

 

い! 俊ちゃんの好きな、ビッグサンダーマウンテンも!」
「えーと、あー……。ごめん。日曜はだめなんだ」

 

 その言葉に、一瞬空気が止まった。

 

「……どうして?」
「日曜は、その、予定があって」
「どんな?」

 

 あやめの声が低い。

 

「それがそのー……、その日、ディズニーに行くんだ。……別の子と」
「え……?」

 

 あやめの黒い目が、ゆっくりと見開かれた。
 いけないことを言ったわけではない。けれどなぜか、あやめの顔を見ると、罪悪感が増えてゆく。
 なぜだか、分からないけれど。

 

「誘われて、さ」
「……女の子?」
「え? あー、うん」
「そーなんだ」

 

 あやめはぽつりと、言った。

 

「じゃあ、罰ゲームなしで、いいや」

 

 

 

 

ネット小説【ハピネス】 【2】

 

 

 このページにしおりを挟む
 トップページへ戻る