ネット小説 【ハピネス】 (2)

【1】 ネット小説【ハピネス】 【3】

 

 日曜は生憎、雨だった。
 俊一は携帯電話を開いてみたが、メールは来ていない。
 予定通り、9時に駅に行けばいいのだろうか。

 

「俊! ちょっと来て、俊ー!」

 

 階下で母親が呼んでいる。何か手伝わされるのだろうか。俊一は慌てて時計を見た。8時40分。そろそろ出なければ、遅刻してしまう。

 

「なに、母さん?」

 

 ジャケットに手を通しつつ、階段を降りた。母親――奈美子が廊下をバタバタと走り回っている。尋常ではない様子だ。

 

「ど、どうしたの? なんかあった?」
「あっ、俊。あんたもう着替えてるのね。ちょうどよかった、今から母さんと病院行くわよ」
「病院? って、なに? まさか父さんが」
「父さんじゃないよ。父さんは東京に出張中。うちの家族じゃなくて、あやめちゃんのお母さんがね、入院したの」
「雛子さんが?!」

 

 あやめの家は母ひとり子ひとりだ。父親はずいぶん前に亡くなっている。

 

「今朝、突然倒れたらしいのよ。雛子さんちの前に救急車が止まってたから、なにがあったかと思ったら」
「ぜんぜん気付かなかった……」
「あんた寝てたんでしょ。朝の6時前だったもの。あやめちゃん、パニックになってて可哀相だったわ」
「あやめ、今どうしてる?」

 

 あやめとは、あの図書室以来会っていない。なんとなく避けられているような気がしていた。
 ケータイに、あやめから着信もメールもなかった。母親が倒れたなんてことがあれば、真っ先に連絡してきそうなものなのに。

 

「救急車に乗っていったから、病院だと思うわ」
「だと思う、じゃ曖昧だよ。病院? 家?」
「えーと、たしか……。入院にはいろいろ準備がいるのよ。パジャマとか下着とか、そういうこまごましたことはおばさんがやるから、あやめちゃんは救急車に付き添ってって言っておいたわ」
「どこの病院?!」
「A大学病院……、って俊!」

 

 駆け出そうとしたが、ジャケットの裾をつかまれた。

 

「何だよ母さん、早くが行ってやらないと」
「いろいろ手続きもあるから、あんたじゃムリよ。行くなら一緒に行くわ。タクシーもうすぐ来るから。でも俊、だれかと待ち合わせしてたんじゃないの?」
「え? ……ああ」

 

 俊一は舌打ちした。携帯を開く。『篠原由紀』……発信。

 

「……出ないな」
「待ち合わせしてるの? 今、電車の中なんじゃない? メールしたら?」 
「いや、もう5分前だし……。まだタクシーこないんだよな。ちょっと行ってくる。すぐ戻るから、タクシー待たせといて」

 

 

 

 

 傘をさした彼女の姿を見て、初めて自分がずぶ濡れで走っていたことに気付いた。

 

「相原くん、どうしたの? 傘は?」

 

 篠原由紀が慌てて、俊一を傘の中に入れる。肩で息をしながら、俊一は由紀の目を見た。
 彼女はクラスメイトだ。あやめを毎日見ているせいか、目が肥えてしまった自分から見ても、彼女は格別だった。
 彼女を包む空気は、凛として、静かなのだ。そう、まるで今降っている、細かい雨のように。

 

「ごめん、篠原。今日、行けないんだ」
「え……?」

 

 ゆっくりと、目が見開かれた。俊一は事情を説明しながらも、携帯を開く。あやめからの連絡は、相変わらず、ない。

 

「そうなんだ……。あやめちゃんって、結城あやめちゃん? 1年生の」
「うん。ほんとにごめんな。また今度、埋め合わせするよ」
「ううん、いいの。こんな時期に誘っちゃって、申し訳なかったって思ってたし」
「じゃあオレ、行くな」

 

 俊一はもう一度謝ると、きびすを返した。その背中を、由紀の声が止める。

 

「相原くん、この傘使って」
「え? でも」
「わたし、そこのコンビニで買えるから。相原くんまで風邪で倒れちゃったら大変でしょ?」

 

 由紀は優しく微笑む。躊躇したのち、俊一は傘を受け取った。

 

「ありがとう。ごめんな」
「どういたしまして」

 

 あやめちゃんによろしくね、と由紀は微笑んだ。
 赤い傘の持ち手には、彼女のぬくもりがまだ残っていた。

 

 

 

 

 渋滞と赤信号に焦れつつ、病院へやっと辿り着いた。看護士から部屋番号を聞き、俊一ひとりでそこへ向かった。奈美子は受付で手続きがあるから、後から来る。

 

「あやめ!」

 

 扉を引き開けると、正面の椅子に座っていたあやめが腰を浮かせた。

 

「俊ちゃん……? どうして。だって、今日は」
「雛子さん、大丈夫か? ……と、ごめん、寝てるのか。容態はどうなんだ?」
「大丈夫……、お母さん、ムリしすぎちゃったみたい。過労って言われた。でも一応、CT取ったの。検査入院」
「そっか。よかった」

 

 安堵の息をついて、雛子を見下ろす。あやめは絶対に、母親似だ。すきとおるような白い肌と、長い睫毛。確か40代前半と聞いたが、もっと若く見える。
 線の細い女性だが、女手ひとつであやめを育てているのだ。優しげな微笑みの、だが、心の強い女性だ。

 

「俊ちゃん」

 

 あやめの声に、顔を上げる。大きな瞳が細められて、可憐に微笑んでいた。

 

「来てくれて、ありがとう」

 

 

 

 

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