ネット小説 【ハピネス】 (4)

【3】 ネット小説【ハピネス】 【5】

 

 病院の廊下はあまりにも、暗く。
 ぽつりと明かりのともる病室は、まるで優しい毛布のように、暖かく見えた。

 

「容態が急変して……手は尽くしましたが……」
「原因は、何ですか」
「……恐らく、急性心不全です」

 

 医者が畏まって言う。
 奈美は雛子のかたわらで嗚咽をもらし、あやめはそれを見下ろしている。
 俊一たち3人以外、人はいない。
 雛子は夫と駆け落ち同然で、家を出た。あやめに親類はいない。

 

「雛子さん、心臓に病気持ってなかったですよ」

 

 医者の曖昧な言葉と、曖昧な病名に、怒りがわいてくる。ギリギリで押さえながら、尋ねた。

 

「ちゃんと治療、してくださったんですよね」
「それはもちろんです。X線などで検査をし、治療も並行して行いました。力を尽くしたのですが、及ばず……このような結果に」

 

 初診では、過労と軽視していたのではなかったのか。怒鳴りつけたくなるのを、ぐっとこらえる。初診の説明を、自分が受けたわけではない。
 病気のことは正直、わからない。心不全という病名は聞いたことがあるが、具体的にどういう疾患なのかピンとこない。

 

(今、怒鳴ったら……、とまらない)

 

 それはたぶん、医者に対する不信感の吐露に留まらない。この現実に対しての怒りすべてを、ぶつけてしまうだろう。
 拳をにぎりしめる。激情を押し込める。

 

「あやめちゃん?」

 

 涙まじりの、奈美の声が耳を打った。

 

「どこに行くの?」
「ちょっと……お手洗い……」

 

 ふらりと、あやめが動いた。俊一を通り過ぎて、廊下へ出て行く。

 

「あやめ。待てよ」

 

 俊一はすぐに後を追った。
 すれ違った時、あやめの目を見た。生気のない、うつろな……。あんな目、初めて見た。

 

「あやめ」
「――駄目」

 

 小さなライトが照らす、エレベーターホール。腕をつかむと、あやめが短く言った。うつろな双眸で、首を振る。

 

「だめ。こんなの、だめ。だめなの」

 

 声がかすれている。俊一の胸が突き刺すように痛んだ。子どものようにあやめは、だめ、と繰り返す。
 俊一はそっと、あやめの髪をなでた。

 

「……うん。そうだよな」
「お母さんが。俊ちゃん、お母さんが」
「うん」
「どうして……、なんでえぇ……?」

 

 あやめの瞳から、涙が零れ落ちる。とめどなく、白い肌を伝い落ちていく。
 俊一は唇をかみしめた。細い体を、抱きしめる。

 

「なんで……なんで、お母さんが……。ちがう、ちがうよ、だめだよ。こんなの、こんなとこ、本当じゃないよ。ねえ、そうだよね。ちがうよね、俊ちゃん」

 

 ぎゅ、とあやめがすがりつくように抱きしめてくる。体が震えている。

 

「病院なんかきらい……、死んでない、お母さんが、死ぬはずない。死んでないの。絶対に」
「あやめ……」

 

 身を引き裂くような、あやめの祈り。現実を知っていても、心が絶望を、拒絶する。

 

「おかあさん……おかあさあぁあん……っ」

 

 しぼり出すように、あやめは泣いた。
 俊一はただ、強く抱きしめることしかできなかった。

 

(――あやめ)

 

 雛子さん。
 どうして、あやめを置いて、逝ってしまったんですか。

 

 あの時みたいに、……父親の時みたいに、あやめは何もわからない子どもじゃない。
 このまま砂になって、崩れ落ちてしまいそうな体を、俊一は必死で抱き止めていた。
 いつのまにか、自分も泣いていた。あやめと一緒に、冷たいリノリウムに座りこんでいた。それよりも冷たくて悲しい、あやめの涙を、一粒でも救いたいと思った。

 

 

 

 

 あやめはそれからずっと、俊一の手を離さなかった。
 お通夜も葬式も、家の中でも、うつろな瞳で宙を見つめながら、か細い手で握っていた。
 泣き過ぎて、赤く腫れた目。もう、声すら出ない、青い唇。

 

「……あやめ。なんか飲むか?」

 

 あやめは反応しない。
 雛子が亡くなってから、2週間が過ぎていた。それから一度も、学校に行っていない。

 

「オレンジジュースがあったんだ。ちょっと待ってろよ」

 

 そっと手を離し、椅子に座らせる。あやめは宙を見つめたままだ。
 冷蔵庫からパックを取り出しながら、尋ねた。

 

「あやめ、どっか行きたいとこあるか? どこでも連れてってやるよ」

 

 オレンジ色になったコップをテーブルに置くと、のろのろとあやめが両手で包んだ。

 

「温泉でのんびりするか? それとも、近くの公園に散歩に行くか? 買い物でもいいよ。ほしいもの、何でも買ってやるよ」
「……」

 

 反応しないあやめの髪を、そっと撫でてやる。すると、ふと思い出したように、あやめが顔を上げた。

 

「……ディズニーランド」
「ん?」

 

 小さくて、聞き取れなかった。俊一は上体を曲げて、あやめの唇に耳を近づける。

 

「なに、あやめ」
「ディズニーランド、行きたいな」
「……よーし」

 

 俊一は笑った。
 あの夜から、初めて、あやめがしたいことを言った。

 

「じゃあ、今から行くか」

 

 朝、10時。空は青く、快晴だ。

 

 

 

 

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