第1章【4】 ネット小説【騎士と少女】 第1章【6】

 

 帰路をたどる前に、行かなければならない場所がある。マリーは図らずも緊張してしまう自分を、持て余していた。

 

 ――連れて行ってほしいんだ。マリーがオレを、見つけてくれた場所へ。

 

 昨日かわした約束があるから、マリーの足取りは緊張してしまうのだ。場所はきちんと覚えているし、日が落ちる前にたどり着けることも分かっている。その辺りは何の不安もないのだが。
 緊張の原因は、別のところにあるのだ。

 

「近い場所だったんだな」

 

 家の方向を確かめながら、エリックは言う。マリーはぎこちなく頷いた。

 

「ああ。だから運べたんだ。エリックは鎧を着てて重かったから、近くて助かった」
「鎧、か」

 

 エリックはひとりごちて、また沈黙する。彼の沈黙が、緊張する原因のひとつだった。
 和やかだったランチタイム。カラになったお弁当箱をバスケットにしまって、森へ入った時から雰囲気が変わった。エリックが極端に無口になったのだ。
 記憶をなくした場所に向かうのだ。その気持ちも、充分に分かる。――けれど。

 

(こ、こわいぞ、エリック)

 

 雰囲気が硬すぎる。両目も鋭いし、近寄りがたい。このようなエリックを見るのは初めてだった。
 昼食に時間をかけてしまったせいか、空は赤くなり始めている。日が沈むのはあっという間だろう。マリーは足を早めた。
 そうして辿り着いたのは、家からほど近い道の途中。
 大木が前を遮るように横倒しになっている。ここへ頭を預けるように、エリックが横たわっていたのだ。

 

「ここだ、エリック。木のところ。めぼしい所持品はなにもなかった。エリックだけが倒れていたんだ」
「ありがとう、マリー」

 

 エリックはゆっくりと、その場所へ足を進めた。
 空は茜に染まり、ゆっくりと雲が流れている。風が吹いた。エリックの金髪を揺らした。薄紫の瞳がゆっくりと、辺りを見回していた。

 

(エリックの記憶が戻ったら、どうなるんだろう)

 

 小さな胸の痛み。
 エリックの重荷が減るのは、とても喜ばしいことだ。けれど、記憶を取り戻したらきっと、エリックはここを出て行くのだろう。

 

(本当の家には、大事な人が待っているかもしれないんだから)

 

 痛みはさらに大きくなる。止められなくて、マリーは思わず胸を押さえた。
 最低だ。エリックの重荷が減ることを、手放しで喜べないなんて。エリックの幸せを、願えないなんて。
 自己嫌悪がさらに、胸を重くする。マリーは知らず、くちびるを噛みしめていた。
 エリックは倒木の元で片膝をついている。指先で表面をなぞっているようだ。
 そうしてゆっくりと、両目が見開かれた。言葉もなく倒木を凝視している。

 

「何かあったのか?」

 

 以前はなにも見つからなかったはずだけれど。首をかしげつつ、マリーは足を踏み出す。
 と、矢を射られたかのように突然、エリックが顔を歪めてうずくまった。

 

「……ッ!」
「エリック? どうしたんだ、大丈夫か!」

 

 マリーは慌てて駆け寄り、エリックの肩を支えた。焦って膝をついたせいで、小石に擦りむいてしまったが構わなかった。
 エリックの額を、いくつもの汗が流れている。よほど苦しいのだろう、顔が真っ青だ。呻き声を上げない分、押し込まれた苦痛の大きさを感じさせる。
 マリーは焦る心を抑えつつ、片手でバスケットを探った。けれど肝心な時に限って、薬を持ってきていない。バスケットを叩き付けたい気持ちだった。自分は最低な上に、まったく使えない女だ。こんなに苦しんでいるエリックに、何もしてあげられないなんて。

 

「エリック、大丈夫か、エリック」

 

 呼びかけながら、涙さえ出そうになる。不規則に上下する肩を必死で支え、マリーは何度も声を掛けた。それしかできなかった。

 

「……マリー」

 

 とてつもなく長く感じた時間の後、ゆっくりと、かすれる声がマリーを呼んだ。
 マリーは目を見開き、応えようとした。けれど息が喉の奥で詰まって、出てこなかった。
 エリックは憔悴した表情で、それでもゆっくりと、微笑んだ。

 

「すまないマリー、驚かせてしまって。もうだいぶいいから、心配しなくていいよ」
「エリック――」

 

 やっと、声が出た。
 そして同時に、熱いものが頬をつたった。目の奥はさらに熱い。だめだ、泣いたらだめだ。

 

(つらいのは、エリックなのに)

 

 痛いのも、苦しいのも、エリックなのだ。怪我をして記憶を失って、そして今も苦しんで。だから自分などが泣いてはいけない。毅然として、エリックを支えて元気づけなければいけない。

 

「マリー、ごめん。泣かなくてもいいから」
「泣いてなんか、ない」

 

 無茶な言い分に、エリックは苦笑したようだった。

 

「そうだな。マリーは泣いてない」
「……勘違いするなんて、エリックらしくないぞ」
「ごめん」

 

 エリックは微笑む。長く息を吐いて、倒木に背を預けた。マリーはこっそり涙をふいてから、顔を上げる。

 

「もう大丈夫なのか」
「ああ、だいぶいい。この木を見たら突然頭痛に襲われて……。さすがに驚いたよ」
「もしかして、何か思い出したのか?」

 

 記憶の奔流が、頭痛を引き起こしたのかと考えたのだ。だがエリックは首を振った。寂しげな笑顔だった。

 

「……ひとつだけ」

 

 視線を斜め下に落とし、エリックは木をなでる。マリーはそこにあるものに気付き、眉を寄せた。
 倒木の表面に、漆黒のシミができている。てのひらを広げたほどの大きさだ。よく見ると、周囲にも点々とシミが落ちている。
 変色しているが、どう見てもこれは血液だった。

 

「この血痕を思い出したよ。自分のことは相変わらず、思い出せない」
「じゃあ、怪我をしたシチュエーションはどうだ?」
「それも、思い出せない」

 

 エリックは首を振る。口元は微笑んでいるが、薄紫の瞳が悲しみにゆれていた。血痕を見下ろしながら、ぽつりと言う。

 

「ただこれが、オレ以外の人間の血だということを思い出しただけだ」
「じゃあ、えっと……、エリックを襲った人間の血ということか」
「それもちがう。オレはあの時誰かと一緒にいたんだ。その時、別の人物に襲われた。この血痕は、一緒にいた人間の――、っ」

 

 エリックは言葉を詰まらせた。右手で額を押さえ、再び苦痛の表情をよぎらせる。

 

「エリック大丈夫か!」
「オレは――、思い出さなくちゃいけない。思い出さなくちゃ、いけないんだ……」

 

 エリックの額から汗がいくつも流れ落ちている。きつく寄せた眉、上下する肩。見ていられなくて、マリーは首を振った。

 

「苦しいなら思い出さなくていい、今すぐじゃなくていいんだ。ゆっくり思い出していこう」
「俺は、あの時『誰か』を守れなかった――」
「え?」

 

 意味をつかみそこねて、思わず聞き返してしまった。けれどすぐに後悔した。『エリック以外の人間の血』が流れているということは、最悪の事態も考えられるのだ。
 エリックは騎士だ。身なりから考えて、間違いないだろう。そして騎士は、『主人を守るため』に存在する。もしこの血が、エリックの主人のものであったなら。

 

(エリックは主人を守りきれなかった――)

 

 ズン、と心に重りが落ち、肺を圧迫して息さえしづらかった。マリーは必死で、今浮かんだ考えを否定する。
 主人を守りきれなかったのなら、『存在するはずのもの』がある。けれど、それがないのだ。
 マリーは必死で明るい口調を心がけ、言う。

 

「大丈夫だエリック。わたしがエリックを助けた時、ここにはエリック以外の怪我人や、亡くなっている人はいなかったんだ。だからこの血はエリックのものだ。それか、襲ってきた奴の血だ。エリックは最初から、ひとりで森に入ったんだ」

 

 エリックはそれでも、倒木に添えたてのひらをゆっくりと、握りしめた。わずかに震えているのを、マリーは見た。
 負の感情をめったに現さないエリックが、表に出している。マリーは胸に、ガラスが突き刺さるような衝撃を覚えた。

 

「エリック――、わたしは」

 

 無意識だった。
 マリーはエリックの震えを止めたかった。だから、右手でエリックのこぶしに触れた。包みこむように、優しく握った。
 そうしてエリックの両目を見上げ、言った。

 

「エリックが生きていてくれて、救われたんだ」

 

 薄紫の双眸が、ゆっくりと見開かれた。
 ここで何が起こったのか、確実なことは何もわからない。エリックは誰かといたのかもしれない。その人を守れなかったのかもしれない。けれど、確実なことがひとつだけある。

 

「わたしは、エリックが生きていてくれて、救われた。毎日を笑顔で過ごせるようになった。それだけは、分かっていてほしいんだ」
「……マリー」

 

 エリックのくちびるから、かすれた声が落ちた。
 呆然と見開いた薄紫が、長い時間ののち、やがてゆっくりと、優しく細められた。

 

「ありがとう、マリー」

 

 

 

 

第1章【4】 ネット小説【騎士と少女】 第1章【6】

 

 

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