第1章【5】 ネット小説【騎士と少女】 第1章【7】

 

 その後、エリックはたびたび倒木を訪れているようだった。
 昼過ぎに弓矢を持って出掛けていき、日没までには獲物を手に戻ってくる。マリーには言わないが、その間に倒木へ行って失われた記憶を必死で呼び戻そうとしているのだろう。普段は相変わらず笑みを残しているけれど、全身から疲れが滲み出ているようだった。
 マリーはというと、エリックが狩りに出かけている間を見計らうように、たびたびデニスたちが現れるので、対応に四苦八苦していた。
 今までこのような頻度でデニスが尋ねてくるようなことはなかったのだが、よほど村で面白くないことが立て続いているのだろう。けれど、先日のように怪我をさせられるようなことはなかった。悪口や嫌味を言い散らして去っていくだけなので、比較的助かっていた。
 倒木を訪れた日から7日が過ぎて、エリックは日に日に憔悴していくように見えた。精神的な疲れだから、眠ったって治らない。むしろ、眠れてさえいないように思えた。

 

「エリック、今日は狩りに行かなくてもいい。昨日の獲物を干し肉にしてあるから、それが余ってるんだ。今日は家でゆっくり休んだらどうだ?」

 

 見かねてマリーはそう提案した。エリックは少し考えた後、小さく笑みつつ頷いた。
 昼食を食べ終わる頃、いくつもの小さな雫が屋根を叩いた。雨だ。ぽつりと、エリックが言った。

 

「今日は洗濯物、干せないな」
「うん。いいよ、今日は休息日にするって決めたんだ」

 

 あたためた紅茶を、エリックと向かい合って口に含む。雨音が響く。エリックは無言で窓の外を見つめている。

 

(なにを……考えてるの)

 

 エリックは口数が少なくなった。物思いにふける時間が多くなった。
 エリックの記憶はどこまで戻っているのだろう。あれから頻繁に倒木へ出かけているのだから、以前よりたくさん思い出しているのかもしれない。
 けれどエリックは、マリーになにも言ってくれない。その理由はわからない。
 マリーも、エリックになにも聞かない。こちらの理由は明らかだった。

 

(こわいんだ)

 

 記憶を取り戻したエリックは、ここから出て行ってしまうかもしれない。その事実を突きつけられるのがこわいのだ。
 けれどそんな自分を嫌悪してしまう。なぜ全身で喜べないのだろう。エリックの記憶が戻るのを、確かに自分は望んでいたのではなかったのか。
 倒木へ行くと決まった時、エリックの重荷が減ると、喜んだのではなかったか。
 それすらも偽善だったのか。どうしようもない人間だ、自分は。
 マリーは胸元の十字架を握りしめた。父が遺してくれた金色のネックレス。いくら神様に祈っても、こんな汚い自分が許されるはずがない。

 

(悪魔の子――)

 

 マリーは唇をかみしめる。
 村の人間達からさんざんあびせられた罵倒。悪魔、魔女、背信者。あのころは反発していたけれど、今ならわかる気がする。彼らの言うとおり、自分は黒い人間だ。

 

「マリー」

 

 すぐ上から声が降ってきて、マリーは我に返った。慌てて振り仰ぐと、エリックがすぐ隣から見下ろしていた。「な、なに、エリック」と、動揺しつつ答えると、エリックはマリーの手を取り、そっと立ち上がらせた。
 訳もわからずエリックを見返すと、薄紫の双眸が真摯なひかりを宿して見つめている。マリーはさらに動揺して、思わず目をそらした。

 

「ど、どうしたんだエリック。もう紅茶はいらないのか?」
「ああ、もういい。とてもおいしかったよ」
「じゃあ、わたし外の水がめで洗い物してくる」
「外は雨だ。明日にした方がいい」

 

 エリックの声は、冷静だった。けれど奥に青い熱を宿したような響きだった。
 彼の目を見ることができない。突然どうしたのだろう。いつもと雰囲気がちがう。
 一呼吸置いて、同じトーンでエリックの声が響いた。

 

「マリー。話があるんだ。大切な、話だ」

 

 びくりと肩が強張った。
 話とはなんだろう。それは記憶に関することだろうか。マリーはぎこちなくエリックを見上げた。すき透るような、真摯な瞳。
 やっぱりエリックは、ここから出て行ってしまうのだろうか。

 

「俺には記憶がない。何度倒木に足を運んでも変わらなかった。何者かに襲われた時、誰かと一緒にいた、それしか思い出すことができない。でも確かにあの時、俺は『誰か』といた。俺はマリーに助けてもらって生き残ることができて、ここにいる。けれど、『誰か』は居場所も、生死すら分からない状態だ。だからこそ俺は、知らなくてはいけないと思う」
「……何をだ?」

 

 エリックが何を言いたいのか理解しながらも、マリーは聞いてしまう。
 手足がすう、と冷えていく。目に映るものすら、色あせてゆくように感じる。

 

「マリーにはとても世話になった。感謝してもしきれない。俺はまだ、マリーに何も返せていない。それは分かっている。けれど俺は、探さなくてはいけないんだ。あの時、俺と一緒にいた誰かを」
「……うん」
「だから俺はここを、出ようと思う」

 

 その言葉を伝える時でさえ、エリックの双眸は優しかった。

 

「『誰か』を探すために、いろいろな場所を調べたいんだ。俺は何者かに襲われている。危険が伴うかもしれないから、調べている最中はここへ戻ってこられない。マリーを巻き込むのは嫌なんだ。だから完全にこの家から出ることになる。けれど、マリー。きみが望むなら、俺はここにいる」

 

 最後の言葉を、マリーは一瞬、理解できなかった。だから空白が生まれた。
 エリックは今、なんて言った?
 ゆっくりと指先が伸びて、マリーの頬に触れた。ほとんど消えかけている、細い傷。

 

「マリーが不安を抱えているなら、俺は行かない。マリーのそばにいるよ」

 

 さらに深い空白が、生まれた。
 ザァっと背筋が粟立った。つま先から頭の先まで、激情が駆け抜けた。――なにを言っているのだ、エリックは。

 

(俺はここにいる)
(きみが『望む』なら)

 

 なにを言っているのだ!

 

「そんなのは、卑怯だ」

 

 ガン、と。
 両のこぶしをエリックの胸を打ちつけて、心臓からしぼり出すように言った。エリックの双眸が見開かれた。

 

「卑怯だ、エリックは卑怯だ! そのような――すべてをわたしに委ねるようなことを言って。わたしにどう選べというんだ? そんな言い方しか、できないんだったら……!」

 

 頬を熱いものが伝っていた。いくつも、いくつも。心ない暴力に傷ついたのち、優しい指が、触れた頬。

 

「エリックなんか、今すぐどこへでも、行ってしまえばいいんだ!」

 

 ―― 痛い。
 ぐちゃぐちゃに、掻き回された。胸の中枢を。出て行くと、それだけを伝えられた方がまだ良かった。
 選べない。『誰か』は死んでいるのかもしれない、生きているのかもしれない、捕えられているのかもしれない。その家族はずっと、帰りを待っているのかもしれない。
 とてもつらい思いをしている人が、いるかもしれない。

 

(言えるわけがない)

 

 ここにいてほしい、だなんて。

 

「マリー、――ごめんマリー」

 

 熱い両腕が、泣きじゃくるマリーを包んだ。
 体をよじってもびくともしない、力強い腕だった。

 

「すまない。俺が悪かった。こんなことを言って俺が馬鹿だった。俺は、ただ」

 

 声が、熱を帯びていた。腕に力がこもり、片頬がエリックの胸に押し当てられた。
 そしてしぼり出すように、エリックは言った。

 

「ただ、マリーが……大切だ。悲しませたかったわけじゃない。ひとりにさせたくない。危険な目に合わせたくない。だからマリーに選ばせるようなことを言ってしまった。マリーの言うとおり、俺は卑怯だ。もう二度と言わない。マリーを傷つけてしまうことは言わないから……泣かないでくれ」

 

 腰に回していた右腕が、マリーの頬にそえられた。ゆっくりと上向きにされ、薄紫の双眸と目を合わせた。
 涙でかすんでよく見えない。でもエリックの瞳は後悔に揺れていた。苦痛に揺れていた。

 

「……マリー」

 

 小さく雨音が響く。かすれるように、エリックが呼んだ。
 ゆっくりと近づき、そうしてマリーは両目を閉じ、ひとすじの涙が頬を伝い、それから――。
 優しいくちびるが、マリーのそれと重なった。

 

 

 

 

第1章【5】 ネット小説【騎士と少女】 第1章【7】

 

 

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