第2章【3】 ネット小説【騎士と少女】 第2章【5】

 

 何かがちがう、と感じないわけでもなかった。
 自分が自分でないような、踏みしめる地面がぐにゃりと歪むような、説明のつかない気持ち悪さが、確かにある。

 

『思い出せ。ハワード』
『おまえは誰だ?』

 

 ……麻薬を用いた逆行催眠。ショック療法。
 焼かれるような苦痛の果てに、むりやり呼び戻した記憶は、甘い水のようでもあり、鋼の剣のようでもあり。
 そして、胸の奥に空虚を生んだようでもある。

 

「……エリック」

 

 暗闇の森。
 月光のみを頼りに、獣道を上る途中で、少女は問いかける。
 静かに、寂しく。

 

「一緒に森を歩くのは久しぶりだな。……エリック」

 

 この娘は、一体なにを考えているのだろう。
 緑の瞳は絶望に沈み、けれど口元は微笑みを浮かべている。どこまでも空虚な、微笑みを。
 金色の月夜。光がより届く方へと、エリックは歩く。左には悪魔と契約した娘。逃亡を防ぐために握っている手腕が、ひやりと冷たい。

 

 

 

 

 月光が強くなった気がして、マリーは顔を上げた。
 広がる草原と黄色い花。息を呑む。心へ深く刻まれている場所だった。
 エリックが小さく息をついた。草原の隅までマリーを引っ張り、座れと命じた。

 

「ここでギルを待つ。少しだけ寿命が延びたな。運がいいのか悪いのか」

 

 マリーは素直に従い、腰を下ろした。花の香りがいつもより濃い。
 歩く途中、エリックは木々の枝を小さく折りながら歩いていた。注意深く見ないと気付かないほどの目印だ。ギルという男は、それを確認しつつやがてこの場所に辿り着くのだろう。
 マリーは目の前に広がる草原を見つめた。
 あの時は、昼だった。どこまでも明るい空と、光を受けとめる花びらがあった。

 

「……ねえ。エリック」

 

 もう応えてくれないと分かっていても、呼びかけてしまう。
 ひとカケラの望みを、探してしまう。

 

「ここの場所を、覚えているか?」

 

 薄紫の双眸は、前を見つめていた。
 金色の髪が、さらりと風に流れた。わずかに目を細め、マリーを見ないまま、言った。

 

「初めて来る場所だ」

 

 そうか、とマリーは小さく、呟いた。
 月あかりが降りる。静けさが花びらをゆらしていた。
 星と草原しか視界に映らない。両親の思い出の場所。あの時のエリックは、マリーに連れて来られた。ここを忘れた今のエリックは、自分の足で辿り着いた。
 それは、偶然という名の奇跡なのだろうか。

 

(奇跡なんかに、したくない)

 

 もし奇跡ならば、本当に、失ったことになる。
 エリックの瞳を、信じていた約束を、マリーはすでに、失っていたことになる。

 

「……なぜ、泣く」

 

 ぽつりと、彼の声が落ちた。
 マリーはうつむいたまま、首を振った。

 

「泣いてなんか、いない」
「見苦しいな。いまさら惜しむか。悪魔に売った命を」
「わたしだって、見られたいわけじゃない。涙を拭えないんだ。手を縛られたままだから」
「……。見え透いた策だな。俺には通用しない」
「そんなつもりはない。見苦しくても、我慢しろ」

 

 沈黙が落ちる。
 見苦しいと言っていたのに、エリックの視線を感じる。痛いほどに、刺されるような眼差し。

 

(どうして、見る?)

 

 息苦しい。うつむいたまま、マリーはぎゅっと目をつむる。見ないでほしい。もうあの時の瞳じゃない。ただ、冷たいだけなのだ。だから何度でも傷ついてしまう。
 その時ふいに、どうしてか、エリックの指先がマリーへと伸びた。
 うつむいた頬の、伝い落ちる涙へ触れかけた、その一瞬。

 

「さわるな」

 

 弾くように、マリーが拒絶した。
 ピクリとエリックの指が止まる。マリーは顔を上げた。涙で濡れた頬をそのままに、熱い感情を吐き出した。

 

「わたしのことを忘れたのなら、もう、二度と、さわるな……!」

 

 エリックは目を見開いた。言葉すら出さず、ただ、呆然とした。
 やがて強い風が吹き、目の前の花びらが散った。エリックはゆっくりと目を伏せ、指を下ろし、口を開いた。

 

「……ここは明るすぎる。場所を移す。立て」

 

 声はやはり、冷たかった。
 マリーは無言で従った。

 

 

 

 

 ……鎧が、重い。
 何かがちがう、と感じるのだ。鎧が重くて、心すら重くて、エリックは空を仰ぐ。
 星々が眠る、紺碧を。

 

(俺は……、どうして)

 

 指先を握りこむ。一瞬だけ触れた皮膚が、なぜか、熱い。
 エリックは目を閉ざし、再び開く。
 教会騎士として――特命を帯びた騎士として、それ以上の思考を己に禁じた。

 

 

 

 

第2章【3】 ネット小説【騎士と少女】 第2章【5】

 

 

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