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 『第一騎士』の唾液には、軽い麻酔効果がある。
 小さな舌がちろちろと、うなじを這う。彼女の体液に充分に濡らされたところで、細い犬歯が皮膚に当てられた。リネットの指に、僕の髪がからむ。それを握りこまれると同時に、鋭く皮膚を突き破られた。
 疼痛が全身に広がる。細い腰を抱き寄せそうになるのを、抑えこむ。熱い血流が彼女に吸い上げられ、小さな喉がコクリと鳴った。

 

 

【 王冠とキス 】

 

 

 執政官たちとの会議を終えて、自室に戻ってきたのは深夜1時過ぎだった。あらかじめ用意させておいたグラスを口にすると、氷を含んだワインが喉を滑り、熱い脳を冷やした。
 王国法は18歳の飲酒を禁じている。姉上からも飲まないようにと忠告されているが、この国で最も働いている王弟の特権として、目をつむってもらおう。どうせ彼女も、弟の存在なしでは国を統べることなどできないのだ。

 

 更衣の女中を呼ぶのも面倒で、ベストを脱ぎソファに投げる。夜着は寝室の衣装部屋だ。居間から寝室へ通じる扉を開けて、寝台を目に入れた瞬間、きつく眉を寄せた。舌打ちをもらしそうになる。
 寝台の上でリネットが眠っていた。絨毯の上には小さなブーツがきちんと揃えられている。華奢な体に不釣り合いな軍服を着こんだまま、仔猫のように体を丸めて、心地よさそうに寝息をたてていた。

 

 彼女から目線を引きはがし、クローゼットから夜着を取りだす。シャツのボタンを外していると、肩より伸びた金色の髪がサラサラ落ちて鬱陶しい。高貴な身分の者は髪を伸ばすことが望ましいと言われているが、無駄な慣習であるとしか思えない。
 だが、交渉において容姿がモノを言う部分は思いのほか大きい。クローゼットの扉の裏につけられた鏡から、透きとおる翠玉の双眸が見返した。白磁のような肌を、青みがかった金の髪が縁取っている。
 幼いころよく少女と見間違えられた。今でも同年代の青年より線が細く、背も低い。自分の容姿について特になんの感慨も持たないが、周囲は、神が年月をかけて精緻に創り上げた人形のようだと褒め称える。

 

 風通しの良い夜着に着替え、柔らかい手触りのガウンを手に持ち、寝台を振りかえる。あれほど勝手に入ってくるなと忠告したのに、彼女はまるで聞いていない。
 10歳のころのような、なにも知らない子どもではないだろう。けれど彼女の言動はあのころと少しも変っていないのだ。
 丸まった背中は、寝台の手前にある。呼吸に合わせてゆっくりと上下するそれを見つめつつ、寝台に腰かけた。やわらかなマットがたわみ、純白のシーツにシワを刻む。

 

 いつもくるくるとよく動く紺青の瞳は今、まぶたの奥に隠されていた。シーツの海に広がる黒髪をひとふさ手に取る。日中は高い位置で結われている艶やかな髪は、ひんやりとした心地よさを肌に伝えた。

 

「リネット」

 

 舌に馴染んだ名を呼ぶ。手に持っていたガウンで、シルバーグレイの軍服を包んだ。
 すんなりと伸びたまつ毛がわずかに震え、ゆっくりとまぶたが開いた。桃色の唇がわずかに開いて、かすれた声が零れ出る。

 

「マルセルさま」
「ここでなにをしている」
「マルセルさまに、おやすみなさいを言いに来たんです。ここで待ってたら、気持ちよくなってきて、つい寝てしまいました」

 

 ぼんやりと言いながら、リネットは上半身を起こした。細い指がガウンの合わせを引きよせる。まだ眠いのか、大きな瞳が潤んでいた。

 

「マルセルさま、今日も夜遅くまで頑張っていらっしゃったんですね。あまり無理をしないでくださいね」
「夜のあいさつだけをしにきたのではないだろう」

 

 冷たく言ってやると、リネットは困惑したように押し黙った。やがて彼女の指がシーツの上を這い、同じように置いていた僕の手の甲に触れる。振り払いたくなる衝動とその逆を、ぐっとこらえた。

 

「マルセルさま、ごめんなさい」

 

 もうひとつの腕が伸ばされ、僕の首に柔らかく巻きついた。ふわりと花の香りが鼻孔をくすぐる。黒髪に頬を撫でられ、果実のような唇が耳朶に寄せられた。

 

「リネットに、血をください」

 

 

 

 

 彼女との境界が曖昧になる。嚥下の音を5回数えたところで、髪を握りこんだ彼女の手がゆるんだ。彼女の薄い肩をつかむと、リネットはゆっくりと首もとから顔をあげ、シーツの上にへたりこんだ。やわらかな重みが腕にかかる。
 潤んだ唇から血が流れて、白いシーツに零れた。

 

「あ。汚しちゃった」

 

 ぼうっとした目で、リネットは言う。

 

「ごめんなさい」

 

 最近リネットは情緒不安定だ。普段は呆れるほどに元気だが、いつもちょっとしたことでウジウジする。今回はそれが長引いている。
 原因はわかっている。
 今期から新たに任命した近衛騎士団長ラウ・クラフトのせいだ。

 

「明日、演習仕合いがあるんです」

 

 リネットは僕の目を見ない。

 

「だからどうしても、血がほしくて。じゃないとラウに負けてしまうから」
「リネット」

 

 彼女を離し、僕は寝台の上部に背をもたせた。

 

「夜に僕の寝室に来るな」

 

 丸っこい目に、純粋な疑問が浮かぶ。

 

「でも、仕合いは朝早いんです。明け方にマルセルさまを起こすのは申し訳ないから、夜のうちに血をもらっておかないと力が出ません」
「この部屋だけじゃない。他の男の部屋にもだ」
「ラウのところにも?」

 

 『第一騎士』の配下に、近衛騎士団がある。まるで冗談のようだが、17歳のリネットは、25歳のラウ・クラフト近衛騎士団長の上官にあたる。打ち合わせなどで互いの執務室を訪れることもあるだろう。
 爵位や階級が遠く及ばないところに、『第一騎士』の身分はある。だからリネットが深夜に近衛騎士の宿舎に出入りしても、皆敬礼し、一段下がる。
 けれど勇将と誉れ高い騎士団長の、密室となれば話は別だ。

 

「そもそも、なぜおまえが演習仕合いなどに出る必要がある。他の軍人どもにやらせておけ」
「だってわたしも軍人ですから」

 

 紺青の瞳に、生意気にも非難の色が乗る。

 

「マルセルさまにはわからないかもしれないですけど、色々大変なんです。わたしは『第一騎士』だけど『血の儀式』をしないとどうしても弱いから、他の団員に馬鹿にされてしまうんです。だからこういうのには積極的に参加して、きちんと戦績を残しておかないといけないんです」
「エオウィン家でそんなものに出るのは、後にも先にもおまえくらいだな」

 

 生意気な態度に嗜虐心を煽られて、喉の奥で笑った。

 

「出来損ないの『第一騎士』は哀れだな。そのうち泥でも啜るか?」
「そんなことしません! マルセルさまの意地悪!」

 

 睨みつけて、寝台から降りる。ブーツをはく小さな背中を見つめながら、明日の仕合いを思った。恐らくリネットが優勝するだろう。『儀式』を終えたエオウィン家の騎士は、それだけで100の兵をねじ伏せる。
 けれど、身ひとつのリネットはただの少女だ。
 ブーツをはきおえた彼女が、くるりとこちらを向く。まだ瞳が怒っている。

 

「これ、ありがとうございました」

 

 肩からガウンを脱ぎ、差しだしてきた。僕は引きよせた片膝に頬杖をついて、薄く笑んだ。

 

「部屋まで着ていけ。廊下は冷える」
「すぐそこなので、大丈夫です」

 

 『第一騎士』は主のすぐ近くに居住空間を持っている。

 

「命令だ」

 

 リネットは黙って従うしかない。
 不満そうな声で「ありがとうございます」とつぶやいたあと、ガウンを羽織った。男物のそれは華奢な彼女には大きすぎて、肩からずりおちそうになっている。夜のあいさつとともに一礼して、膝にまとわりつく裾を気にしながら部屋をあとにした。あれが男の所有欲を満たしていることなど、リネットは想像もしていないだろう。
 彼女の残り香がちらついている。香水をつけていないのに、いつも甘い香りがする。眠れそうにないので、もう1杯ワインを飲むために寝台から降りた。

 

 先ほどの会議には、ラウ・クラフト近衛騎士団長も護衛として付き添っていた。
 諸々の後片付けを終えて、そろそろ宿舎に戻るころだ。我ながら性格が悪いと思うが、自重する気は起きなかった。
 リネットはなにもわかっていない。ラウ・クラフトが彼女に辛く当たるのは、『第一騎士』を辞めさせたいからに決まっている。

 

 

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