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 月が夜空にかかる頃、この街の人々のほとんどは、すでに眠りについている。
 この世界には電気がないからだ。ろうそくやオイルを使うのも金がかかる。だから早々に寝てしまう。その代わり、朝は早い。

 

 俺はオイルランタンを片手に、相棒と市内警邏の真っ最中だ。深い藍色の制服には仰々しい金色の肩章(けんしょう)が縫い付けられている。スネに傷を持つ市民らは、この制服が歩いているのを知るや、それが1キロ先でも慌てて逃げ出すという。

 

「あー寒い」

 

 相棒のエヴァンは、白い手袋に包まれた両手をこすりあわせる。男にしては赤い色の唇から、白い息が舞い上がった。

 

「寒い寒い。悪漢の一人か二人出てこないかな。そしたら体があったまってちょうどいいのに」

 

「おいおいエヴァン。そんなことになったら、報告書作りで残業するハメになるだろう」

 

 しかしながら、|こちらの世界・・・・・・の寒さには毎年閉口させられる。

 

「そういえばさ、クライド。あの事件どうなったの? 1カ月くらい前、男爵殿の小金をスった空腹少年を、君が独断で見逃した件」

 

 俺は思わず苦い表情になった。

 

「副所長からこっぴどく叱られたよ。今すぐに少年をしょっぴいてこいと言われたが、名前を聞いてないし顔も覚えていないと返事しておいた」

 

「クライドの優しさは社会的弱者を救うよね。自分を救うことは、どうやらなさそうだけど」

 

 大通りに出た。
 二人分の足音が石畳の歩道に響く。歩道にも馬車道にも、人影はない。

 

「だがな、エヴァン。盗まれた方の紳士は、相当くせ者だったぞ。とても公にはできないような口汚い言葉で、白昼堂々、延々と怒鳴り散らしていたんだ。スリ小僧の腕を切れだの、舌を抜けだの、聞き苦しいことこの上なかった。しかもスられた金はたったの12ルーベントだ」

 

「金持ちってそんなもんだよ。――あれ?」

 

 ふいにエヴァンが立ち止まった。俺も同じタイミングで足を止める。
 2棟のアパートの隙間に、誰かがうずくまっている。
 俺はランタンを向けた。

 

「どうかしましたか、お嬢さん」

 

 暗がりの中で、タータンチェックのコートに包まれた小さな背中が揺れた。やわらかそうな布のボンネットから、ゆるく波打つ髪がほつれ出ている。身につけているものから、上流階級の少女だということが見てとれた。歳は16、7だろう。

 

 彼女はうずくまったまま、怯えたようにこちらをふり仰いだ。

 

「お一人ですか?」

 

 今度はエヴァンが声を掛ける。このような場合、いかつい長身の俺が前に出るよりも、物腰のやわらかいエヴァンが出た方が、往々にして良い結果をもたらすものだ。

 

 しかし少女は、色の悪い唇を震わせて、毛を逆立てた猫に変化してしまう。

 

「あなたたち、市内警護隊ね。わたしは大丈夫だから、放っておいて」

 

「そういうわけにもいきません」

 

 エヴァンは手を差し伸べる。
 彼女は立ち上がり、後ずさった。

 

「放っておいてと言っているわ」

 

「困ったな。どうしようか」

 

 早くもエヴァンが交代を求めてきた。俺は一歩前に出る。
 黒髪のデカい男(つまり、俺のことだ)に近づかれ、少女の人形のように愛らしい顔が引きつった。

 

「唇の色が悪くなっています。この寒さの中、暗がりでうずくまったままでいると、悪くすれば死んでしまう」

 

「大袈裟だわ」

 

「お屋敷はどちらに?」

 

 少女は強がっているが、すでに歯の根も合わぬほど震えている。寒風を防ごうとしているのか、ハイカットのえりを両手でかきあわせていた。

 

「家に帰りたくないの」

 

「成程。では、いったん詰所(つめしょ)へ行きましょう。そこで事情をお聞きします」

 

「家人(かじん)に連絡をとるつもりでしょう?」

 

 長い睫毛に縁どられた、エメラルドのような瞳である。そこから今にも涙が零れ落ちそうになっている。

 

「――とにかく、暖を取ったほうがいい。さあこちらへ。立てないのであれば、お運びしますが」

 

「放っておいてと言っているでしょう」

 

「我がままを言うんじゃない」

 

 俺は口調を変えて、少女の二の腕をつかんだ。コート越しにも、細くてやわらかい腕だった。

 

「やめて。警護官ふぜいが、一体何の権限で、わたしに命令をするの」

 

 しかしこのまま放っておけば彼女には二つの未来しかない。凍え死ぬか、暴漢に襲われるか、そのどちらかである。
 俺は分からず屋の少女を叱りつけた。

 

「寒さに震えているのを、放っておけるわけがないだろう」

 

 俺はランタンをエヴァンに放り、一言彼女に断ってから、細い腰に腕を回して引き上げた。凍え切った体に力はなく、そのままこちらにもたれかかってくる始末だ。
 それでも彼女は、涙混じりの声で訴える。

 

「やめて、離して。警護所に行くのは嫌よ。家にも帰りたくない」

 

「じゃあ、どこならいいんです」

 

 少女は押し黙り、ふいに、こっちを見上げてきた。
 白磁のような肌は寒さのせいでいっそう白く、唇は色を失い震えている。
 美しい少女だった。ランタンの光を反射して、潤みを帯びた瞳が煌めいていた。

 

 俺は思わず息を呑む。
 遠い記憶の中の、とある少女に似ていたからだ。

 

「――あなたの家」

 

 そして彼女は、突拍子もないことを口走った。

 

「あなたの家なら、行ってもいいわ」

 

 

 

 

 上流階級の家出娘だろうと、検討をつけた。
 早晩、家人から捜索願いが出されるだろう。もしかしたらすでに出されているかもしれない。

 

 エヴァンに確認を頼み、少女を連れて自宅へ戻った。古い4階建てアパートの2階である。
 彼女の、命令に近い懇願により、彼女が俺の家に身を寄せることを警護隊には伝えない運びになった。こちらとしても、年若いレディを家に連れこんだなどと噂されたら困るのだ。しかし何よりもまず、彼女の身の安全を確保するのが先だった。

 

「すぐに暖炉をつけますから、そこの毛布にくるまって適当に座っていてください」

 

 少女の肩に警護隊の制服を掛けておいたが、まだ体の震えは止まっていないようだ。俺は急いで暖炉に火をつけ、温かいお茶を入れた。

 

「上等な葉ではないですが」

 

 少女は暖炉の前のソファに座っている。俺は自分用にダイニングの椅子を引っ張ってきた。
 火の爆ぜる音が響く。やがて俺は口を開いた。

 

「温まりましたか」

 

「ええ」

 

「では、事情を聞かせてもらえますか」

 

「……」

 

 まただんまりである。

 

「名前くらいは教えてくれますね」

 

「……アリスよ」

 

「ありがとう。ファミリー・ネームは?」

 

「帽子を取ってもいいかしら」

 

「どうぞ」

 

 少女――アリスは首もとのリボンをほどいて、レースの縁取りがついたボンネットを取った。見事なブロンドが、ピンでまとめられている。それを器用にほどいて、ゆるく波打つ髪を下ろした。

 

 さっきまで蒼白だった頬が、暖炉のぬくもりに包まれて薄く色づいている。やわらかそうな髪とあいまって、砂糖菓子のような外見の少女だった。

 

 やはり、さっきは見間違いだったのだ。
 彼女が、記憶の底の少女に似ているなどと。

 

 意を決したように、彼女はこちらを見る。

 

「しばらくかくまってほしいの」

 

「それはつまり、誰かに追われているということですか」

 

「そういうわけじゃないけど」

 

「お断りする。朝には帰ってもらいます」

 

 子どものスリを見逃した件もあり、今は進退がデリケートな時期だ。面倒ごとを抱えるつもりはなかった。

 

「今夜は奥のベッドを使ってください」

 

「少しだけでいいの。次の行き先が見つかるまでの、数日でいいから」

 

 俺はあえて無言で拒否を示した。
 ひと晩宿を提供するというだけ、最大の譲歩だと気づいてほしかった。

 

前世・・で同じことをしたら、逮捕モノだったな)

 

 俺は内心、ため息をついた。

 

 

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