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 家から一番近い公園には、電灯がひとつしかない。
 かまくらの遊具の中で、幼馴染の少女は両膝を抱えてうずくまっていた。ランドセルを背負ったままだ。

 

「こんなところにいた」

 

 俺は彼女の正面にしゃがみこむ。彼女は泣き濡れた顔を上げた。白い息が舞う。

 

「またおじさんとおばさんに怒られたのか?」

 

「漢字のテストで……満点、取れなくて」

 

「あの200問出るやつだろ? 俺なんて毎回半分くらいしか取れないぜ」

 

「はんぶん」

 

「おまえは?」

 

「98点……」

 

「おまえ天才かよ」

 

 少女は、そこでやっと笑った。
 俺は彼女の小さな手をとって、立ち上がらせる。

 

「帰ろうぜ。で、おじさんたちに、あのテストは難しいから、満点なんかめったに取れないんだってちゃんと説明するんだ。」

 

「……でも、パパとママ、怖い」

 

「怖くたって、きちんと言わないと、ずっと怖いままだぜ。俺もいっしょにいてやるからさ」

 

 空には星が、ぽつりぽつりと浮かび始めていた。
 少女は潤んだ瞳で「ごめんね」と言った。

 

 

 

 

 アパートから一番近い宿泊所に駆け込んだ。
 すると顔見知りの女将が、「ちょうどいいところに」と走り寄ってくる。

 

「奥の食堂で、旅の人が酔っぱらって暴れてるんだよ。やたら綺麗な子がからまれててさ。なんとかしておくれよ」

 

 俺は返事するのもどかしく、食堂に踏み込んだ。
 果たしてそこには、見るからに泥酔状態の巨漢と、彼ににじり寄られ、壁際まで追い詰められている少女の姿があった。彼らの周りには、椅子が倒れていたり、皿が落ちて割れていたりと、物騒なあとが複数ある。

 

 他の客たちは、関わり合いになりたくないとばかりに顔をうつむけて知らないふりをしている。
 アリスの怯えきった瞳を見て、俺は血が沸騰するほどの怒りを覚えた。

 

 問答無用で巨漢の脇腹に蹴りを叩きこむ。悶絶する彼の、太い腕をねじりあげ、そのまま蹴り倒して、手持ちの縄で縛りあげた。
 巨漢はうるさい程にわめき始める。その口に銃口をねじこんで、俺は言った。

 

「市内警護隊だ」

 

 巨漢は目を白黒させ、うめき声を上げた。手刀を一発お見舞いして昏倒させ、縄を柱にくくりつける。
 ハラハラした様子で成り行きを見ていた女将に、詰所に連絡をするように頼んだ。

 

 他の客たちは、厄介ごとはごめんだとばかりに慌てて食堂を出ていく。
 宿屋を利用するのは、ほとんどが地縁のない商人たちだ。助け船を出すよりも逃げる方を取るのは、当然と言えば当然だろう。

 

 静まりかえった食堂内で、俺は背後を振りかえった。壁際で腰を抜かして座りこんでいるアリスに、ため息がもれる。心配と安堵がないまぜになったため息だった。

 

 アリスに近づくと、彼女は体をこわばらせた。

 

「なんで――なんでここにいるの。助けてほしいなんて、頼んでない」

 

 しかし彼女の体は、暴漢からもたらされた恐怖によって小刻みに震えていた。

 

 食事作りも、掃除も、洗濯も、弁当を届けようとしてくれたのも、すべて俺のためだ。
 鼻持ちならない言葉の裏で、少しでも役に立ちたいと、アリスは思っていたのだ。

 

 胸の辺りが引き絞られるように痛んだ。
 アリスには、彼女の身を案じて探してくれる家族がいない。俺に追い出されたら、酔客の多い宿屋にひっそりと身を寄せるしかない。

 

 けれど――それでも。
 彼女が絹のドレスを着て、暖かいコートを羽織り、レース飾りに縁どられたボンネットをかぶっていたのは、それを彼女に与えた家族がいたからだ。
 だからきっと、アリスがその気になれば、帰れる場所はきっとどこかにあるのだろう。

 

「アリス」

 

 そもそもが、別の世界に住む人間だ。
 俺がこうして彼女に手を差し伸べるのは、本来であればお門違いなのだ。

 

「今朝は、怒鳴ってごめん。君が自分の家に帰れるようになるまで、うちにいていいから」

 

 アリスの、薄紅色の唇が小さく震えた。
 そうしてエメラルドの綺麗な瞳から、涙がいくつも零れ落ちた。

 

 

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