前へ 表紙 次へ

 

 こうして、本格的に俺とアリスの共同生活が始まった。
 休みの日や空いた時間に、アリスに家事を教えてやった。彼女はメモを取りつつ、眉間にシワを寄せて一生懸命だ。

 

 優秀な生徒であるところのアリスは、やがて掃除ができるようになった。
 仕事から帰ると、家の中はスミズミまでピカピカになっていた。
 また、洗濯を完璧にこなすだけでなく、服のほつれを繕うこともできるようになった。

 

 アリスの上達は、料理にも及ぶ。
 食事の時間になると、食欲をそそる匂いがキッチンから漂うようになった。

 

「アップルパイの作り方を、宿屋の女将さんに教えてもらったのよ」

 

 何か一つできることが増えるたびに、アリスは笑顔で報告してくる。
 彼女はエヴァンとも親しくなり、彼がうちに呑みに来た時には三人で盛り上がった。
 そういう時のアリスは、とても楽しそうだ。
 彼女のそういう顔を見ていると、俺まで嬉しくなってくるから不思議だった。

 

 アリスの生意気な態度やわがままな言動がおさまるわけではなかったが、彼女のあまのじゃくっぷりを理解した今は、適当にあしらうようにしている。

 

 こうして、あっという間に2カ月が過ぎようとしていた。

 

 

 

 

 長い冬も終わりが見えてきた頃、市内でタチの悪い風邪が流行りだしていた。
 感染力の強い風邪なので、上官命令で、罹患した隊員は熱が完全に下がるまで出動停止となる。
 俺の所属する詰所には20人ほどが在籍しているのだが、現在なんと11人が罹患していた。

 

「エヴァンもですか?」

 

 出勤早々、所長が記念すべき12人目の罹患者を教えてくれた。
 五十路間近にして現役充分、筋骨逞しい鬼所長は、無精ひげを撫でさする。

 

「腕のたつ若手はもうおまえくらいしか残ってないのだ。くれぐれも注意しろよ」

 

「分かりました」

 

 相棒であるところのエヴァンがいなくなったことで、ただでさえ人手が足りなかった仕事が、さらにギリギリの状態になった。
 俺を含め、隊員たちは皆、目の下にクマを作り、無精ひげを生やしながら懸命に働いている。

 

(万が一、俺も罹ったらとんでもないことになりそうだな)

 

 アリスにも、むやみに出歩かないよう注意しておかなければ。

 

 

 

 

 残業をたっぷりしてから腹ペコで帰宅すると、アリスは難しい顔をしながら本を片手に、キッチン台に向かっていた。

 

「ただいま。夕飯、まだできてない?」

 

「あっクライド、ちょうどいいところに。このレシピの『蒸す』っていうのがどうしても分からないの。材料をお湯に浸しちゃいけないの? どうして?」

 

「あー、今日は疲れてるから、また今度にしてくれ。
 夕飯がまだなら作らなくていいよ。外に食べにいこう」

 

 しかし、この提案はアリスの気に入らなかったらしく、文句を言い始める。

 

「途中まで作ったのに。あと少しなのに」

 

 俺は悪戦苦闘の様子が残るキッチンと、アリスの指の、新たに負ったであろうヤケドだか切り傷高の、へたっぴな手当てのあとを見た。
 やれやれと思いつつ、彼女からレシピ本を拾い上げる。

 

「で、どの部分が分からないんだ?」

 

 

 

 

 翌朝、アリスは早起きして昨夜の復習をしていたようだ。
 出掛けに渡されたお弁当には、白身魚と野菜の蒸し料理が入っていた。

 

「弁当作ってくれたの初めてだな。ありがとう」

 

「材料が余っただけよ」

 

 アリスは「買い物があるから一緒に出る」とついてきた。
 アパートの廊下を歩きながら、彼女はあくびをしている。早起きしていたから、まだ眠いのかもしれない。
 俺自身も、まだ疲れが大量に残っていた。つられてあくびをしつつ階段を下りていると、となりで「きゃあっ」と叫び声が上がった。
 足を踏み外したアリスの、小柄な体を抱きとめる。そこで事なきを得る――はずだった。

 

 しかし、肝心な時に俺は眩暈に襲われた。疲労と寝不足のなせるワザだ。
 しまった、と思った時にはもう、10段の階段を転げ落ちていた。かろうじて、アリスに怪我がないよう抱きこんで庇っていた。

 

「クライド、大丈夫?」

 

 アリスは慌てた様子で起き上がった。俺は右の手首にイヤな痛みを覚えながら、上体を起こす。
 どうやらひねったらしい。
 しかも、利き腕だ。

 

「病院、もう開いているわよね。行きましょう」

 

「大したことないから大丈夫だよ」

 

 今、流行風邪のせいで病院はてんてこまいだ。ヘタに院内をうろついてウイルスをもらっても困る。
 それ以上に、仕事が忙しい。
 次の休みまで、病院には行けないだろう。
 それがいつ取れるのか、分からないけれど。

 

 心配するアリスをなだめて、俺はそのまま出勤した。この日も嵐のように忙しく、やはり病院へ行く余裕はなかった。
 帰宅してから、洗面所でこっそり手首を見てみると、ぽっこりと腫れて熱を持っていた。痛みもある。

 

「すごく腫れてるじゃない!」

 

 どうやらアリスは覗き見ていたようだ。俺はとっさに手首を隠したが、それをアリスにつかまれた。

 

「痛っ」

 

 激痛に思わず声を上げると、アリスはみるみる青ざめていった。

 

「わたしのせいで――」

 

「君のせいじゃないよ」

 

 俺は袖を伸ばしながら言った。

 

「あの時眩暈さえ起こさなければ、ケガはしなかった。しっかり体力つけておかなかった俺が悪いんだ」

 

 アリスは真珠のような歯で、唇をかんだ。

 

 

 

 

 エヴァンは驚異の回復力を示し、翌日から復帰した。
 そして早速、手首のケガに気づかれた。

 

「それヤバいんじゃない?」

 

「昨日一日、誰にも気づかれなかったのに、なぜおまえはひと目で気づくんだ」

 

「ちょっと抜けて医者に診てもらって来たら?」

 

 エヴァンが復帰したならそれも可能かと思ったが、間の悪いことに、入れ違いで鬼の休みが休みになった。隆々とした体躯も、ウイルスには勝てなかったらしい。

 

 生き残っている上官は、所長専属のイエスマンこと副所長だけである。
 悲しいかな、彼には人望がまったくない。

 

 必然的に、頼られるのは俺ということになる。所長いわく「腕の立つ若手」で、さらに流行風邪の中一日も休まず出勤していたため、最近起こった事件について詳細をすべて記憶しているからだ。

 

 同期や先輩が次々に相談に来る。後輩は指示を仰いでくる。コッソリ抜けて病院へ行くなど、できる状況ではなかった。

 

「真面目なのも考えものだね。その責任感、少しは犬にでもくれてやったら?」

 

 エヴァンは呆れた目を向けてきたが、できる限りのフォローはしてくれた。
 しかし昼頃から痛みと腫れはマックスになり、書類を書くことすら難しくなっていた。銃や警棒(長さ60センチほどの六角棒)をしっかりと握ることもできない。

 

 そのせいで、ヒヤっとしたことがあった。
 警邏中、気の荒いことで有名なチンピラどものケンカに出くわしたのだ。
 血気盛んな若者たちを体術で軽く抑えこんだところ、手首に痛みが走って相手に抜けられ、逆に殴りかえされそうになった。
 エヴァンにフォローしてもらって事なきを得たが、「このままではマズイ」と思わせるのに十分な出来事だった。

 

 早く病院で手当てをしてもらって、せめて1日でも、手首を休ませなければ。
 分かっていても、目の回る忙しさで昼食をとる暇もなく、1日が終わってゆく。
 病院はもう閉まっている時間帯だ。俺は憔悴して職場をあとにした。

 

 

前へ 表紙 次へ

 

 このページにしおりを挟む
 トップページへ戻る