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「ご両親が出したんじゃないみたいだね」

 

 宿直の夜である。
 詰所には俺とエヴァン、そして二人の後輩しかいない。その二人はついさっき、警邏に出たばかりだ。

 

「ええと、提出人はセドリック・エイデン男爵、25歳、男性。探し人は子爵家長女アリス・イングラム、17歳。これはあのアリスってことでまちがいないよね。髪や目の色の特徴も同じで、似顔絵もそっくりだし。
 エイデンとイングラム。姓も違うってことは、母方の親戚かな」

 

 俺は薄い資料をめくっていた。3枚目に、セドリック=エイデン男爵とアリスの関係性を示す一文がある。
 胸底を爪でひっかかれたような痛みが走った。

 

「婚約者、だそうだ」

 

「えっ、そうなの。ふーん……」

 

 エヴァンは黙りこみ、気づかわしげに俺を見る。

 

「あのさ、僕、もうひとつ気づいちゃったんだけど。
 このセドリック=エイデンっていう人、スリの被害者じゃない?
 ほら、以前クライドが見逃した空腹小僧の」

 

「――ああ、そうか」

 

 確かにそうだ。
 皮肉な因果に、唇を歪める。

 

 あの紳士は、飴玉がやっと1コ買えるような金額を貧しい少年にスられ、烈火のごとく怒り狂い、口汚く罵っていた。人間性は推して知るべし、である。

 

「こういう終わり方は、僕はあんまり納得いかないけど。どうするの、クライド?」

 

「どうするもなにも」

 

 最初から分かっていたことだ。
 ずっと自分に、言い聞かせてきたことだ。

 

「アリスに話すよ。待ってくれている人がいるなら、彼女はそこへ帰るべきなんだ」

 

 

 

 

 翌日の昼に、勤務を終えて帰宅した。
 しかし、アリスの姿はなかった。

 

 背筋を冷たいものが走り抜けた。まさか、婚約者に見つかって連れ出されたのだろうか。副所長は一度うちに押しかけて来た時、アリスの顔を見ている。いつ露見しても不思議ではない。

 

 いや、違う。落ち着け。
 そうであれば、真っ先に俺に話が来るはずだ。
 きっとアリスは、買出しにでも行っているのだろう。

 

 そう思っていても、落ちつかなかった。
 つい窓の外を探したり、部屋をうろうろしてしまうたびに、俺は自分に舌打ちした。覚悟していたことなのに、何てザマだ。

 

 その時、玄関の扉が開いた。

 

「あらクライド。帰っていたのね」

 

 エメラルドの瞳を嬉しそうに細めて、アリスは買い物袋をテーブルに下ろした。
 俺は彼女が帰ってきたことに心の底から安堵する。

 

「どうしたのクライド。座ったら? コーヒーでもいれましょうか」

 

「アリス。話があるんだ」

 

 俺の硬い声音に、アリスは異変を感じとったようだ。
 捜索願が出された件について話すと、アリスは眉根を寄せてしばらく黙りこんでしまった。

 

「ごめんなさい……少し、考えを整理したいの。このことについてはきちんとあなたにお話するから、夜まで待ってもらえるかしら」

 

 それからアリスは寝室に籠もってしまった。
 彼女と同居するようになってから、俺の寝室は彼女の個室になった。俺は居間のソファをベッド代わりにしている。職業柄、もっと酷いところで寝ることもあるので、ソファは上等な寝どころの範疇だった。

 

 ――夜。
 アリスはやっと、部屋から出てきた。そして、静かな声で告げた。

 

「今から出られる?」

 

 

 

 

 冷たい空に、金や銀やらの星が散らばっている。
 ランタンを片手に、俺はアリスと誰もいない通りを歩いている。彼女はずっと無言だった。そうして20分ほど歩き、街を囲む城壁のそばまで辿りつく。
 西側の城壁はちょっとした森になっていて、綺麗な泉が沸いているため、昼間は子どもたちの遊び場だった。 

 

「わたしの家は、このすぐ近くにあるの」

 

 真っ暗な森を進みながら、アリスは言った。
 やがて視界が開け、泉のほとりに辿りつく。

 

 警邏の時でも、ここまでは回らない。通報があれば行くが、そのようなことも滅多になかった。
 だからオレは、目の前に広がる光景に驚きを隠せなかった。

 

 冷えた月光が、清浄な泉に降りている。
 その光は幻想的な青みを帯びて、惹きこまれそうなほど美しい。
 さらに、金色の冬蛍(ふゆぼたる)が、仄かな輝きを放ちながらゆっくりと空中を舞っていた。

 

「両親に怒られて落ちこんだ時は、いつもこっそりここに来ていたの」

 

 アリスのふっくらした唇から、白い息が舞っていた。

 

「わたしはね、クライドがケガをしても、責任感を持って真正面から仕事と向き合っているのを見て、衝撃を受けたわ。ちょっとやりすぎじゃないかしらと思うくらい、クライドは真っ直ぐだった。
 それでわたしは、思ったの。
 わたしもクライドのように、自分の問題と正面から向き合わなくては、と」

 

 それからアリスは、婚約者のことを話し始めた。
 彼は8歳年上で、婚約が決まるまで会ったことは一度もなかったということ。
 冷たい目をした青年で、アリスと会話しようともしないこと。
 彼にとって結婚は、地盤を固めるための手段でしかなく、他に愛人が何人もいるということ。

 

「捜索願が家族から出されなかったのは、娘が家出したことが露見したら恥だと考えたからだと思うわ。
 婚約者の彼にも、わたしが家出したことは秘密にしていたはずよ。
 でもそう長く隠しとおせることではないものね。彼はわたしの失踪を知り、両親に怒り、自分の名で捜索願を出したのだと思う」

 

 蛍がすっと飛んで、泉の上をかすめた。小さな波紋が広がる。

 

「わたしは今まで、厳しい両親の言うなりに生きてきたわ。
 でも今回だけは、どうしても嫌で、両親の要求に応えられなかった。でも、嫌だと主張しきることもできなくて、八方塞がりになった。
 それで、逃げたの。
 クライドと出会ったのは、家からこっそり逃げてきた直後のことよ。
 何の計画もなく飛び出してきたから、あんな状態だったの。我ながら情けないわ」

 

 その時、俺の脳裏に、ひとつの光景が閃いた。

 

『こんなところにいたのか。またおじさんとおばさんに怒られたのか?』

 

 かまくらの遊具の中で、両膝を抱えていた幼なじみ。
 パパとママが怖いと、寒空の下で泣いていた。
 あのころの俺は、あの子に何て言った?

 

「だからわたしは、きちんと両親にまっすぐぶつかってこようと思う。
 あの人と結婚するのは嫌だって、はっきり主張しようと思うの」

 

 今の俺は、ただアリスの話を聞いてあげることしかできなかった。
 アリスの決意を俺は素晴らしいと思ったし、両親ときちんと向き合って、自分で自分の人生を歩こうとする彼女を、応援したいと思った。

 

「話を聞いてくれてありがとう」

 

 俺はろくなアドバイスすらできなかったが、アリスはエメラルドの瞳を煌めかせて、微笑んだ。俺はそれを、胸をしめつける痛みとともに、受けとめる。

 

「俺も、君にずっと助けられていたよ」

 

 アリスはそっと、俺の手に自分のそれをからませる。しなやかな肌の感触がした。

 

「もし両親を説得することができたら――婚約を白紙に戻すことができたら。
 そうしたら、あなたのところに戻ってきてもいい?」

 

 心臓が震えた。
 まさかそのようなことを、アリスが考えているなんて、想像もしていなかった。

 

 茫然とする俺を、アリスは見上げた。寒さで頬が上気して、唇はいっそう赤く染まっている。煌めく瞳は潤みを帯び、俺をじっと見つめていた。

 

「……アリス」

 

 呼ぶ声が、かすれた。
 頭がうまく働かない。
 俺は彼女の頬にてのひらを触れた。やわらかさに、くらりとする。
 そしてそのままゆっくりと、花びらのような唇に、口付けた。

 

 

 

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