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 屋敷の外に1台の箱馬車が出ていた。実際は、俺は馬車など呼んでいない。これはセドリック=エイデンが乗ってきたものだ。

 

「お疲れ、クライド」

 

 馬車のかたわらに、エヴァンと老年の紳士が立っている。紳士はエイデン男爵の執事だった。
 彼はほとほと困り果てた様子で、クライドに頭を下げる。

 

「こちらの警護隊の方から事情をお聞きました。うちの坊ちゃんが大変失礼を致しました。
 いつ問題を起こすかと危惧しておりましたが、まさか子爵家のや警護隊の方々を巻き込んでしまうとは……」

 

「話の分かる執事さんでよかったね」

 

 俺は彼にエイデン男爵を渡した。執事は男爵を箱馬車に横たわらせる。

 

「坊ちゃんは幼いころご両親を亡くされまして、親戚をたらいまわしにされ……。
 その生活に耐えかねて、10歳のころ、男爵家に泣きながら戻ってきたのでございます。
 それから私と私の妻が、我が子のように育てて参りました。
 ただ、不遇な坊ちゃんをつい甘やかしてしまい、気づけばこのようなことに……」

 

「また男爵が問題を起こしたら、俺のところへ来てください。
 彼への対処法は掴みましたから、何とかしてみせましょう」

 

 執事は白いものが混じる頭を何度も下げ、この場をあとにした。
 馬車を見送ってから、エヴァンが両手を上げて伸びをする。ちなみに窓の外から見えたならず者の小正体は、言うまでもなくエヴァンだ。

 

「あー終わった終わった。ところでアリスはどうしたの? 連れてこなかったの?」

 

「ああ」

 

 本当は、アリスを連れて帰ろうかと思っていた。
 彼女の意志を無理やりねじ伏せるようなご両親だったら、迷いなくそうしていた。

 

 美しい調度品と、綺麗なドレスに包まれて、両親の庇護下にあり、ゆっくりした時間の中で過ごしてゆく。
 そのような生活が、彼女にとって一番安全で、しっくりいくものなのだ。

 

 胸に走った切ない痛みは、見えないフリをした。

 

「今日の出勤は夕刻からだな。メシでも食いに行くか。いろいろと世話になったし、奢るよ」

 

「僕、肉食べたい。デカくてウマくて高いやつ」

 

 俺たちは並んで歩きだした。
 その時、後ろから息せき切って駆けてくる、甲高い足音が響いた。

 

「待って、クライド」

 

 俺は驚いて振りかえる。
 すると腕の中に、小さくてやわらかな体が飛び込んできたのだ。

 

「待ってクライド、どうして行ってしまうの」

 

「アリス?」

 

 俺は彼女を抱きとめながら、困惑してエヴァンを見る。
 彼は軽く肩をすくめて、

 

「やっぱ奢りは明日でいいや」

 

 と言いつつ立ち去っていく。
 アリスはしゃくりあげながら顔を上げる。綺麗なエメラルドから、大粒の涙が零れていた。

 

「両親を説得したら、あなたのところへ戻っていいって言ってたのに、どうして一人で行ってしまうの?」

 

「でもアリス。君はあの家にいた方が、幸せになれる。何不自由なく暮らせるんだぞ」

 

「だって、クライドがいいんだもの」

 

 俺は胸を衝かれた。

 

「離れている間、クライドに会いたくてしかたなかった。
 あの家に帰りたかった。
 あなたのために部屋を綺麗にして、ごはんをつくって、一緒に食べて――あんな幸せな時間、これまで経験したことなかったの」

 

 それでも俺はためらった。
 この両腕で、彼女を抱きしめてもいいのか、分からなかった。

 

「クライドが好きなの。だからあなたのそばにいさせて」

 

 しかしアリスは、ほんの少しの言葉で、俺のためらいを崩し取った。
 俺は彼女の名を呼んで、細い体を抱きしめる。甘い花の香りが広がって、最後にしぶとく残ったためらいをも溶かされてしまった。

 

「――アリス」

 

 名を呼ぶたびに、体の奥がまろやかな温ぬるみを帯びていく。

 

「好きだよ、アリス」

 

 アリスの瞳から、涙が零れてゆく。
 それを指先で拭いとり、湿った頬に唇をすべらせた。
 くすぐったそうに身を竦める彼女をさらに抱き寄せで、俺はやわらかな唇にキスをした。

 

 

fin.

 

 

 

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