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 ジュナ画廊は都で一番大きな店だ。
 絵画だけでなく、書籍も扱っている。
 主に古典文学の印刷・出版を手掛けているらしい。

 

 レンが重々しい扉を開ける。
 壁や床に、絵の具の匂いが染みついていた。
 心安らぐ空間だ。

 

「ようこそ、お嬢さん」

 

 店主は20代後半の優男だった。
 若すぎるから、跡継ぎかもしれない。

 

 古く広い店内に、客の姿はなかった。
 わたしは実家で描きためていた1枚を渡した。
 S8号の油絵だ。

 

「これは素晴らしい。僕は美しいものが大好きなんだ」

 

 彼はひとめで気に入ってくれた。
 花畑で2匹の仔猫が戯れている構図だ。
 透きとおるような空が描けて、自分でも満足している。

 

「僕の名はアルトゥ・トレザー。絵が描けたらどんどん持ってきてほしい。油絵だけでなく水彩画も買いとるよ。劣化が早いから、多少値は落ちるけど」
「ありがとう。わたしはチェルシー・イーリィという。これからよろしく頼む」

 

 姓はレンのを借りている。
 フレットの姓は、現在の都においてスキャンダラスだからだ。

 

 アルトゥ・トレザーは上品に微笑する。
 鳶色の瞳が深くなり、意味ありげにわたしを見つめた。
 背すじがヒヤリとする。

 

 ……バレたかもしれない。

 

 トレザー家は豪商だ。
 有名なのは画廊よりむしろ印刷所のほうである。
 八折版の文庫本を出版し、これが大ヒットとなったのだ。

 

 いままでの文学といえば、美麗な写本に綴られ、王侯貴族に蒐集される存在だった。
 トレザー家はそれを引き降ろし、庶民でも買えるようにした。
 小型で安価な本は印刷出版の革命と呼ばれ、国中を席巻している。

 

 ゆえに、アカデミーはもちろんのこと、貴族からの覚えもめでたい。
 夕食会に呼ばれることもあるようだ。

 

 わたしは上目遣いにアルトゥをうかがった。ケープのフードをかぶりなおす。

 

 『王子殿下と婚約を交わしながら、不徳を働いた極悪令嬢』

 

 これがわたしの二つ名である。
 アルトゥの表情が暗く歪んだら、気づかれたということだ。
 極悪令嬢の絵を置いてくれる画廊など、どこにもない。

 

 数秒後、アルトゥは穏やかにいった。

 

「可愛らしい瞳でそんなふうに見つめられると、勘違いをしてしまう。実をいうと僕の本業は印刷のほうなんだ。もちろん絵画も好きなんだけど、君の場合は君自身のほうに気を惹かれてしまうよ」
「そ、そうか。とりあえず、良かった」

 

 ほっとした。バレていないようだ。
 アルトゥは片方の眉を上げる。

 

「とりあえず良かった? どうとでも取れる返しかたをするね。君の本心はどちらなのかな、チェルシー」
「それで、買い取り価格はいくらになるんだ?」

 

 腕を組みつつ、レンが尋ねた。
 アルトゥは微笑する。

 

「そうだね。うちの方式は一般的な画廊と同じだ。作家ごとに号価格を決めて算出する。新人作家なら、1号あたり1万から1万5000リーエル。絵画年鑑に名が載ると、、価格は跳ねあがる。人気作家は20万を超えてくるよ」

 

 つまり、8号の絵なら160万リーエルで売れるということだ。
 店頭価格はもっと高いだろう。

 

 師匠の顔が思い浮かんだ。
 20万を超える人気作家とは、たぶん彼のことだ。

 

「チェルシーは新人だ。まだ若いし、伸びしろもある。まずは1万1000リーエルからスタートしてみないか? 水彩画はその半分だ」
「少し待ってくれ」

 

 布袋から『図解・庶民のくらし』を取りだした。
 二人暮らしをするには月に25万リーエル必要とある。

 

 コンスタントに絵が売れると仮定して、油絵と水彩画、10号が2枚ずつ。
 油絵は乾かすのに時間がかかるから、3~4枚を同時進行で描く。
 水彩画はその合間に。

 

 貯金もしたいし、ゆくゆくはレンの給金も払っていきたい。
 数か月かけて50号あたりの絵を加えることも必要だろう。

 

 わたしに、できるだろうか。
 『図解・庶民のくらし』をひらいたまま、きつく眉を寄せる。

 

 同時進行で複数の絵を描いたことはない。
 締め切りを決めたこともない。師匠は時間よりクオリティを重視したからだ。

 

 しかし、やらないと食べていけない。
 わたしにはこれしかない。
 まるで両側が断崖のごく細い道を、命綱もなしに進んでいくようだ。

 

「不安なら、やりかたはある」

 

 穏やかに、アルトゥがいった。

 

「複数の画廊から、大量に注文を取るんだ。そして同じ絵を何枚も描き、いっきに売る。1点ものにならないから値段を叩かれるけれど、日銭は稼げる。同じ絵だから作業時間もそうかからない」
「同じ絵……? でもそれだと、流れ作業みたいじゃないか」
「そうだね。でも描けない作家はそうするしかない。ここでいう『描ける』とは『質の高い絵を永遠に描きつづける』という意味だよ。描くまえに怖気づくような作家には、まず無理だ」

 

 アルトゥは微笑をうかべている。
 わたしは唇を噛みしめた。

 

 ――大丈夫だ。
 3歳のころから、あの変人……もとい天才師匠に教えを受けてきたのだ。

 

『理想の色じゃなければすべて削れ、赤が出なければそのナイフで足を切り血液を塗りたくれ』

 

 苛烈な師匠に泣かされながら、絵筆を握りしめキャンバスにかじりついていた。

 

 大丈夫だ。
 わたしなら、できる。
 『図解・庶民のくらし』を閉じ、顔をあげた。

 

「了承した。これからよろしく頼む」
「こちらこそ」

 

 アルトゥは品よく微笑する。
 商人というより、貴族のご令息のようだ。
 握手を交わした後、アルトゥは『図解・庶民のくらし』に目を落とした。

 

「それは?」
「家宝だ。1年以上かけて紙に書きつけ、工房で製本してもらった」

 

 バーガンディーの革表紙を掌でなぞる。
 家宝、とアルトゥはつぶやいた。

 

「なるほど、面白い」
「描きためた絵がまだ数枚残っている。明日にでも持ってきていいだろうか」
「ああ、楽しみに待ってるよ」

 

 こうして8号の絵と引きかえに、8万8000リーエルを手に入れた。
 生まれて初めて、自分の力で得た金だ。
 しかも、小さいころからずっと描き続けてきた絵で。

 

 胸に迫るものを感じた。
 こみあげる涙を、慌ててひっこめた。

 

 

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