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「というわけでレン。今宵は決起会だ。場末のバーとやらに連れていってくれ」

 

 札束をうっとり握りしめる。
 暮れかけの街がキラキラ輝いて見えた。

 

 レンが呆れたような声でいう。

 

「場末のバーなんて言葉、どこで覚えてきたんですか」
「ロレンスが教えてくれたのだ。よく行くらしい」

 

 ロレンスは子爵家の嫡男だ。
 親同士のつながりで、両家を行き来する仲である。

 

 ロレンス様か、とレンは渋面になった。

 

「あいつが行くところはちょっと問題がある。普通の酒場なら連れていきますよ」
「問題か。それはよくないな。では普通のところで頼む

 

 酔って暴れまわる常客がいるのかもしれない。

 

 酒場の扉のまえで、レンは立ち止まった。
 わたしの髪をまとめ、ケープのフードをかぶせる。

 

「庶民の酒場だが、万が一ということがある。チェルシー・フレットだと酔客にバレたくない。絶対に取るなよ」

 

 うなずいた。
 ふと、ロレンスの声がよみがえる。

 

 ――過保護だな、レンは

 

 いつも、からかうような笑みとセットだった。
 これも過保護にあたるのだろうか。

 

 

 中に入ると、女性店員が微笑みを向けてきた。

 

「いらっしゃい、レン」

 

 凹凸のくっきりした肢体だ。
 目じりから色香が漂っている。

 

 目が合った。

 

「あら、女連れ?ふーん」

 

 上から下まで、ジロジロ見られる。
 好意的な視線ではなかった。
 いごこちが悪い。

 

「こいつは父方のいとこだ」

 

 わたしを椅子に座らせながら、レンがいった。

 

「そういうことにしておいてあげるわ」

 

 女性は白けたように肩をすくめた。

 

 天井からランタンが吊り下げられている。
 オレンジ色の光だ。

 

 カウンターに戻る彼女を、男性客らが盗み見ている。

 

「乾杯」

 

 レンはジョッキをこつんと鳴らした。
 琥珀色の瞳を上機嫌に細めている。

 

 レンが楽しそうだと、わたしも楽しい。
 昔からそうだった。

 

「やっぱアレだな。こういう場所は、呑めるやつと行くのが一番だな」

 

 わたしはウワバミだ。
 酔い潰れた経験は一度もない。
 ひそかな自慢である。

 

「わたしも、レンと呑むのは楽しいよ。レンとなら、どこへ行っても楽しい」

 

 麦酒の泡が、シュワシュワと舌を刺激した。
 レンは苦笑する。

 

「可愛いことをいってくれますね」
「レンには感謝しかない。ベッドも置けないあばら屋についてきてくれた。決起会といったが、本当はおまえを労いたかったんだ」
「それはどうも」

 

 レンはジョッキを傾ける。
 喉ぼとけがゆっくりと上下した。

 

 幸せだな、と思う。
 広い屋敷も、綺麗なドレスもなくなった。
 けれど、とても穏やかだ。

 

「おまえがとても大事だよ。離れるなんて、考えられなかった。」
「……」

 

 レンはわずかに目を見開いた。

 

「覚えているか? ユーリス殿下に、おまえを従者から外すようと命じられたときのことを」
「……覚えていますよ。オレもその場にいた」
「別の者を従者にしろと、突然激昂なされた。あの時は怖かったな。男性の怒鳴り声は、身が竦む」

 

 テーブルの上で、両手をきゅっと握った。
 レンは眉を寄せたまま、沈黙する。

 

「いま思えば、あれがきっかけだったかもしれない。嫌がらせもつらかったよ。けれどおまえを遠ざけられる方がよほどつらい」

 

 嫌がらせは苛烈を極めていた。
 護ってくれたのは、レンだった。

 

「わたしが大切に思う人を、殿下は大切に思ってくださらない。それが、とても悲しかった」
「……オレは」

 

 レンはなにかをいいかけて、口をつぐんだ。
 数秒ののち、ふいに表情をやわらげる。

 

「オレも貴女が大切ですよ。オレの望みは、チェルシー様が幸せになることです。そのためならなんだってする。だから必要な時はいつでもオレを使ってください」

 

 レンは優しい。
 泣きたくなるほど優しい。

 

 料理が運ばれてきた。
 とろとろのオムレツを口に入れながら、わたしは幸せを噛みしめた。

 

 

 

 

「そういえば、生活費のこと話してなかったですね」

 

 

 床に薄い敷布団をしいて、レンは寝転がった。
 ベッドから見下ろして、わたしは首をかしげる。

 

「月30万リーエルお渡しします。明日銀行に寄らせてください」
「30万?!」

 

 待て。
 この男、なにをいっている。

 

「駄目だ! おまえはわたしの従者だろう。雇い主に金を渡してどうする」

 

 レンは従者だ。
 家令に次ぐ上級使用人である。
 実家にいた時は食と住に加え、高給を受けていた。

 

 いまでも給金は父から支払われている。
 食と住くらいは、わたしの金で与えてやりたい。

 

「いや、ムリだろ。冷静になって考えてみろ。絵の売り上げは月25万だろ。それでどうやって冬を越すつもりだ」
「ち、貯金がある。80万リーエルだ。これだけあればいけるだろう」
「なるほど、それで防寒具と薪を買おう。あとは家の修繕だ。こう隙間風がひどいと、冬は越せない」
「そうだな。そういうことも、考えなければな。修繕屋を探さないと」
「知り合いにいるから、頼んでおきます。ところで画材代はどうするんです? チェルシー様が算出した月25万ではまかなえない。そもそも描いた絵は毎回売れるんですか?」

 

 言葉に詰まった。
 たしかにそんな保証はない。

 

 絵にも流行がある。
 意識しても、外れる場合がある。
 客の気を惹けない絵は、買ってもらえない。

 

「ジュナ画廊にいたのはトレザー家の長男だ。トレザー文庫を作り大ヒットさせたのは彼です。生半可ではない実業家だ。だからこそ、目利きは厳しい。3枚に1枚は通らないと思ったほうがいいです」
「――ならば働く!」

 

 ガバっと起き上がった。

 

「足りない分は働く。さきほどの酒場に雇ってもらう。おまえから金は受け取らない」
「バカいうな。女が酒場で働くのは難しいんだ。あんたに勤まるわけないだろう」

 

 レンは上体を起こし、こちらを睨みつける。

 

「やってみなければわからないだろう。なにごとも経験と勉強だ」
「王子殿下のもと婚約者だとバレたらどうする。絶対に駄目だ」
「主人の意向を尊重するのが従者だろう!」
「従者然とした応対を望むならそうしてやる。この度の件は承服いたしかねます。お嬢様の御身を思ってこその忠言、どうぞお聞き届けください」
「態度が尊大だ! 丁寧なのは言葉だけだ!」
「別に、どうとでも。外では働かせない。貴女は絵を描いてください」

 

 レンは口端に笑みを浮かべる。

 

「家でも、外でも、どこでもいい。オレの目と手が届く範囲にいろ。――残念ながら」

 

 

 レンはわたしの隣に腰を下ろした。
 ぎし、と安物のベッドが鳴る。

 

「オレをそばに、と望んだのはあんただ」
「レン……、っ」

 

 

 大き掌がわたしの頬を撫で、髪を梳いた。
 もう片方の腕で腰を抱き取られる。
 そして、唇がこめかみに押しあてられた。

 

 ――これは、親愛のキスだ。
 幼いころの延長だ。
 そう自分にいい聞かせる。
 レンの皮膚は熱を帯びている。

 

「……今日は別の部屋で寝ます」

 

 レンはゆっくりと唇を離した。
 微笑しながら、告げる。

 

「おやすみなさい、チェルシー様」

 

 わたしは茫然と、背中を見送ることしかできなかった。

 

 

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