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 私の名は、ユーリス・アートラッド。
 雄壮なる大国・アートラッド王国の第四王子として生を受け、偉大なる父王と心優しき母妃の愛に育まれ、18の歳を数えた。

 

 そして私は現在、人生最大の憂鬱に深く沈んでいる。
 王宮の4階、自室のバルコニーに身を預け、初秋の空を見る。風が金色の髪をさらった。

 

 ほろりと涙が零れる。
 淋しい。私は、淋しいのだ。

 

「ロレンス・クレイン参りました。本日はお招きいただきありがとうございます」

 

 やわらかな声が背後から投げこまれた。
 私は憂鬱を抱えたまま振りかえる。

 

 扉の近くで、青年は礼をとり恭順を表した。
 口もとには穏やかな笑みが浮かんでいる。

 

「ユーリス殿下におかれましては、本日もお美しく凛としてあらせられる。殿下のお姿を見て、野山の木々が葉を紅く染めあげることでしょう」
「早朝の登城、大儀であった」

 

 涙をぬぐう力も出ない。

 

 そのままうつむくと、青年は「失礼いたします」とバルコニーに踏み入った。
 整った面に、苦笑をうかべている。

 

 彼はシルファウト領子爵家の嫡男で、名をロレンス・クレインという。

 

 青銀の髪を持つ美しい青年だ。
 ふたつ年上の20歳で、私より背が高く体格もいい。
 私はどちらかというと華奢な体形をしている。

 

 しばしばロレンスを呼び立てるので、侍従は難色を示している。
 王宮には上級貴族の子息たちが行儀見習いのため住みこんでおり、彼らを重用すべきという考えなのだ。

 

 しかし私はロレンス以上に場を読める者を知らない。

 

「また彼女を想って、気鬱を抱えられていたのですか」
「ああその通りだ、ロレンス。私はどうしたらいいのだろうか」

 

 また涙が零れた。ロレンスは真っ白なハンカチーフを差しだす。

 

「殿下を恋慕う美姫は星の数ほどおります。極悪令嬢と名高いチェルシー・フレットのことなどお忘れください」
「わかっている。わかっているのだが」

 

 ぽろぽろ流れる涙を、ロレンスのハンカチでぬぐった。

 

 ああ、チェルシー。
 裏切られてもなお、記憶の中の美しさは損なわれない。

 

 自分から突き放したというのに、つくづく私は、愚かな男だ。

 

「透きとおるような翡翠、月下に濡れる花びら。いまだ触れたことのない彼女の銀髪を思い出すたびに、心が苦しくなるのだ」
「重症ですね」
「あまりに苦しくて先日医師を呼んだのだが、治らない」
「恋患いにつける薬はありませんよ、殿下」

 

 ロレンスは口もとで笑う。

 

 この男はどうやら女性経験が豊富らしい。
 貴族らの噂話なので、真偽は定かではないが。

 

「ロレンス。そなたチェルシーと親しいのだったな。彼女はやはり、昔から夜遊びが激しかったのだろうか」
「そのご質問、すでに100回ほどおこたえしましたよ。私はチェルシー嬢が幼少の時分から見知っておりますが、夜遊びをしたなど一度も聞いたことがありません。婚約破棄のきっかけとなったあの一件が初めてです」
「そうか、そうだったな。では質問を変えよう」

 

 緊張で乾いた唇を舐めとった。

 

 この質問は、今回が初めてだ。
 怖くていままで、聞けなかった。

 

「従者のレンとの噂は、本当なのだろうか。実はふたりは恋仲で、私との婚約を嫌がったチェルシーが、わざと夜遊びをして今回の騒動を起こしたという噂だ。いまは都外れのあばら屋で、ふたりきりで暮らしているとか」
「成程」

 

 ロレンスは片眉をあげた。
 数秒沈黙する。打てば響くこの男にしては珍しい。

 

「彼女らが一緒に暮らしているのは、本当ですよ」
「……!」

 

 衝撃で膝から崩れそうになるところを、ロレンスに支えられる。

 

「ただ恋仲という噂は真実ではありません。私はレンとも親しいですが、そのような話は聞いたことがない」
「し、しかし、ともに住んでいるのだろう? 年頃の男女が同じ屋根の下で寝食をともにするということは、つまり」

 

 あらぬ妄想が脳裏を埋めて、私はぶんぶん頭を振った。

 

 そもそも私は、初めて会った時からレンが気に入らなかった。

 

 象牙色の肌に、漆黒の髪。鋭い琥珀色の瞳をして、すらりと背が高かった。
 まるで黒豹のような男だと感じたものだ。

 

 一番気に入らないのは、あやつの目だった。
 レンがチェルシーを見るたび、胸がザワついた。

 

「いいえ、ユーリス殿下。あのふたりに限って、男女の仲はありえません。私が保証いたしますよ。そもそもチェルシー嬢はいまだ初恋にも至らぬつぼみだ。朝露に濡れても、固く閉じたそれはほころぶことを知らない」

 

 なぜかとても愉しそうに、ロレンスはいった。

 

「しかしながら、レンの攻勢によっては今後どのような展開になるかわかりません」
「それはつまり、レンはチェルシーを憎からず思っているということだろうか」
「レンの友人として、おこたえすることはできかねます。が、最近の私の娯楽は、3歩進んで4歩下がるような彼らの先行きを見守ることなのですよ」
「ロレンスよ。そなたは私とレン、どちらの味方なのだ」
「無論、私の心はユーリス殿下のもとに」

 

 完璧な微笑である。私は安堵した。
 ロレンスのことを策士だの腹黒だのと揶揄する連中もいるが、私はそうは思わない。彼は素晴らしい友人だ。

 

 しかし同時に、不安が黒く胸を塗りつぶしてゆく。

 

「もしレンとチェルシーが恋仲になったらと思うと、とてもつらい。胸がはりさけそうだ」
「そこまで想う相手なら、婚約し直せばよろしいのでは??」
「いや……。チェルシーは私を拒んだのだ。それだけはハッキリしている。彼女は私に恋をしていなかった。婚約しなおしても、きっと彼女は夜遊びを繰りかえして破棄を迫るだろう」
「鋭いご洞察です」
「しかしつらい。どうすればいいのだ。ロレンス、私はどうすべきだと思う?」

 

 掌でひたいを押さえる。またしても熱い涙が頬をすべり落ちた。
 ロレンスは笑みを浮かべつつ、息をつく。

 

「まるで初恋に戸惑う少年のようだ。殿下の美しい碧眼が涙に濡れるのはしのびない。よろしければ殿下、王宮の者には秘密にしてチェルシー嬢に会いに行かれますか? 平民になりすまして市井に降りれば難しいことではありません」
「チェルシーに会えるのか?!」

 

 とっさにロレンスの胸もとをつかんだ。

 

「ええ」

 

 ロレンスは微笑んだ。私の涙を、長い指先でぬぐう。

 

「金糸の打ち紐がなされた深緑のジュストコールを、灰色のシャツに。絹のキュロットと靴下は、黒色の長ズボンに。その素晴らしいブロンドは、ウールのケープで隠しましょうか。ご安心ください殿下、私はこのような変装に慣れております。これらの服は、僭越ながら私の弟のものをお貸しいたしましょう。新品より着古したもののほうが露見しにくいのですよ」
「成程、平民に紛れるのだな。しかし私の顔を見たら、彼女は逃げ出すのではないだろうか」
「ご心配は無用です、ユーリス殿下」

 

 ロレンスはにこりと笑った。

 

「チェルシー嬢は人物を記号でとらえる性質がある。ご多忙な殿下のこと、彼女と顔を合わせられたのは、恐らく3カ月に1度ほどでしょう。それくらいなら、高貴な衣服を脱いだ殿下を、恐らく彼女は殿下と認識しない」
「……。それは、なにか。まさかチェルシーは、私の顔をまったく覚えていないということか」
「御意」

 

 再びの衝撃に、私はがっくりとうなだれた。
 なだめるように背をなでながら、ロレンスはいう。

 

「ただしレンはしっかりと殿下のお顔を認識していると思います。そのあたりは私がすべて配慮いたしますので、殿下にはただ口裏を合わせて頂きたく存じます。よろしいでしょうか」
「ああ、わかった」

 

 ロレンスに任せれば安心だ。

 

 アーネストに任せれば安心だ。

 

 ショックをひきずりながらも、愛しいチェルシーの姿を眼裏に思い浮かべ、私は陶然とした。

 

 

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