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「今日は元気がないね、チェルシー」

 

 ロレンスがやわらかく微笑みながらいう。
 鶏はすべて食べきり、たき火は消されていた。食後のお茶をすすっていたところだ。

 

 元気がない?
 気がつかなかった。
 むしろ元気すぎるように感じていた。慌てて彼女を見る。

 

 チェルシーは、翡翠の瞳をゆるませて苦笑した。

 

「ロレンスは鋭いな」
「なにかあったの?」
「どこから説明すればいいのか」

 

 憂いに濡れた瞳をそっと伏せる。
 淡く色づく唇を、小さな歯がきゅっと噛んだ。
 ああ、なんと美しい。
 見惚れていると、チェルシーの向こうから長い腕が伸びて、顔面をぐいっと押された。

 

「近い」

 

 不快げに、レンがいう。

 

 確かに、近かったかもしれぬ。
 男たる者、無闇に婦女子に近づいてはならない。
 反省した。

 

「絵が、売れないんだ。どの画廊に持っていっても、わたしの顔を見ただけで門前払いされる。どこも買ってくれない」

 

 チェルシーの声はとても淋しげで、私の胸も切なくなった。

 

 絵が売れないだと? 
 ならば私がすべて買い取ってやろう。
 いくらでも出すぞ。

 

 しかし彼女は絵を描く女性だったのか。
 繊細な美を持つチェルシーのこと、きっと絵も素晴らしい出来なのだろう。
 一度見てみたいものだ。

 

「なぜ買いとってくれないのか問いただした。
 わたしの絵を並べると、客から難癖をつけられて他の絵も買ってもらえなくなるのだそうだ。
 このままでは生活が立ちゆかなくなってしまう。
 いまは貯えがあるからなんとかなるが、食糧を買えるのもあと3カ月足らずだろう」

 

 私は愕然とした。
 このたおやかな少女が、食うに困ることなどありえない。

 

 ロレンスがいつもどおりの穏やかな表情で、聞く。

 

「絵が売れなくなったことに、心あたりは?」
「……マーガレット・リーズ様に会った。
 わたしが絵を売っていることを知られたのだ。
 邪推はしたくないが、恐らくそれがきかっけだろう」
「マーガレット? なぜそれがきっかけになるのだ?」

 

 私は動揺しつつ口を挟んだ。

 

 マーガレットは侯爵家の娘で、遠縁にあたる。
 妃候補の最上部に名を連ねており、親同士の引き合いで最近よく顔を合わせていた。

 

 しとやかで、優しげなご令嬢だ。
 彼女とチェルシーの窮地が、どうしても結びつかない。

 

 確かにマーガレットは、私の婚約者となったチェルシーを快く思っていなかったふしがある。
 だがそれは、人間として当然の感情だからいたしかたない。

 

 多少の嫌がらせはあったかもしれぬが、妃となれる喜びに比べれば大したことはないはずだ。
 母君も義姉あね君もそう仰っていた。

 

「ユールも貴族であるなら知っていると思うが、わたしは以前ユーリス殿下と婚約を交わしていた。
 わたしの不義をきっかけに白紙に戻されたのだが、まだマーガレット様はわたしのことを憎くお思いになっているようだ」

 

 ――不義。
 その言葉に、胸がつきんと痛む。

 

 チェルシーは憂いを孕む唇で、そっと笑んだ。

 

「しかし、絵まで憎く思われるのはつらいな……。
 買い手がなければどうにもならない」
「午後は新市街を回ってみようぜ」

 

 レンがマグカップを飲み干しながらいった。
 琥珀色の瞳で、じっとチェルシーを見つめている。

 

「あそこは貴族のタウンハウスも少ないし、庶民の街だから、まだ手が回ってないかもしれないだろ」
「そうだな。そうかもしれないな」
「いざとなったらセネト先生に口きいてもらえ。あいつならコネがあるだろ」
「師匠か。黙って家を出てしまったから、近いうちに謝罪しに行かなければな」

 

 チェルシーは疲れをにじませつつ、息をついた。
 その横顔から目を引き剥がし、私は唇を噛む。

 

 今日で、わかったことがある。
 彼女は私に――ユーリス・アートラッドに、なんの感情も抱いていない。

 

 チェルシーはいとも簡単に、私の名を口にした。
 「ユーリス殿下と婚約を交わしていた」と、なんの引っかかりもなく、口にした。

 

 私が同じことを告げれば、きっとあんなに平坦な声音にならない。
 チェルシーと、ただ名を呼ぶだけで、甘やかな切なさがにじむだろう。

 

 私は自分から彼女に婚約破棄をいい渡した。
 けれど最初から彼女は、私に背を向けていた。
 私は彼女を背中から抱きしめ、そして手を離しただけだった。

 

 失恋したのは私だ。
 そして今も、恋し続けている。

 

「ユール?」

 

 翡翠の瞳が、ゆっくりと見開かれた。

 

「どうした? 悲しいことがあったのか?」

 

 私はハッとして、顔をうつむけた。
 いかん、また涙を流してしまった。
 先ほどロレンスから受け取ったハンカチーフで拭う。

 

 チェルシーに、心配そうに覗きこまれた。
 心臓が跳ねあがる。

 

「わたしでよかったら、いつでも相談に乗ろう。
 ともに鶏を食べた仲だ。
 なんでもいってくれ」

 

 婚約していた最中でも、ここまでチェルシーに近づけたことはなかった。
 逢瀬はいつも、侍従や召使いに囲まれていたから。

 

 このままずっと、ユールでいたい。
 そうすれば、涙で潤む世界の真ん中にずっと、チェルシーを映していられる。

 

 

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