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 ――悔しい。

 

 わたしはぎゅうっと扇を両手で潰した。
 アイザックが、かたわらでオロオロしている。

 

 とことん表情に出ない従者だけど、眉の形や目の動きで、なにを考えているのかすぐにわかる。
 長い付き合いだ。
 だから、わたしがいま何に対してイラついているのか、アイザックもきちんと理解しているはずだ。

 

「アイザック、靴を脱がせて!」
「はい、マーガレット様」

 

 化粧台の椅子に腰かける。
 背に張られたベルベットが腕の皮膚をチクチク刺すようで、きもちわるい。

 

 アイザックはひざまずいて、ヒールの靴をそっと引きぬいた。
 その大きな両手が、わずかに震えている。

 

 絹の靴下に包まれたつまさきで、わたしはアイザックのあごを上向かせた。

 

「おまえのせいで、またあの女に屈辱を受けたわ」
「――は。まことに、申し訳なく……」
「チェルシー様の従者は去年の武闘会で準優勝したそうよ。おまえは?」
「3回戦で、敗退しました」
「レン・イーリィに、5秒と掛からず負けたのよね」
「……はい」

 

 悔しそうに、アイザックは奥歯を噛んだ。
 つまさきを抜いて、わたしは彼の頬を平手で張った。

 

 乾いた音が個室に響く。

 

「無様な男」

 

 アイザックはうなだれた。
 壮麗な絨毯に、大の男が床に四肢をつく姿を見ても、わたしの心は波立たない。

 

 なぜなら、相手がアイザックだからだ。

 

「おまえはもう用なしよ」
「マーガレット様……」
「最後の命令をいい渡すわ」

 

 アイザックは精悍な顔を歪ませて、わたしを見上げた。

 

「レン・イーリィをわたしの従者にしなさい。計略でもって彼をわたしのところへ引き入れるのよ。お金ならいくら使ってもかまわないわ。給金を倍にすると持ち掛けてもいい」
「……っ」

 

 絨毯の上で、アイザックが両掌を握りしめる。
 力をこめすぎて白くなったそれを、座ったまま足で踏みつけた。

 

「返事は?」
「マーガレット様……」
「できないのならいいわ。出ていって」
「いえ……っ」

 

 アイザックは片膝を立てた。

 

「いえ、やります。私は……私は、お嬢様のためなら、喜んで……」
「じゃあ、やりなさい」

 

 アイザックは震える声で「かしこまりました」とこたえた。
 するとなぜかイライラが増して、さらに強く彼の手を踏みつけた。

 

 

 

 

 アイザックが命令を実行している間、身の回りの世話は侍女と従僕にやらせた。
 彼女らはとても丁寧で、仕事が確実だ。
 無表情ではないし、細かいところに気がきかなかったりすることもない。

 

 けれどボタンをひとつずつ掛けちがうかのような違和感がある。
 サビがこびり付くかのような苛立ちが積もっていった。

 

 2日後の朝、アイザックは暗い顔で現れた。
 給仕にはきっと、彼が落ちこんでいることがわからなかっただろう。
 基本的にいつも暗いし、無表情だからだ。

 

 給仕を下がらせ、座ったままアイザックに視線を向けた。

 

「その様子だと、結果かんばしくなかったようね」
「申し訳ありません……。昨夜レンを小屋の外に呼び出し、給金をいまの倍払うと交渉したのですが、取りつく島もありませんでした」
「倍でも駄目だというの? アイザック、荒々しいいい方をしたのではないでしょうね」
「そのようなことは……」

 

 目が泳いだ。
 きっと高圧的な態度をしたのだろう。
 やはりこの男は使えない。

 

 いままで何度も従者を変えたことがある。
 けれどなぜか、あらゆるところでボタンを掛けちがわないのはアイザックだけだった。
 だからいつも、3日ともたずアイザックに戻していた。

 

 それにしても、倍の給金でも駄目だなんて。
 わたしは爪の先を噛んだ。
 3年前からの――チェルシー様に婚約者が決まった時からのクセで、いまではどの指も爪がボロボロになっている。

 

 従者は基本的に高給取りだ。
 一般的に年棒が1000万リーエル前後、アイザックもそれくらいのはず。
 レン・イーリィほどの実力者となると、サウスリール伯爵はもっと出している可能性がある。
 1500万か、それ以上……。

 

 その倍でも、駄目だなんて。
 レン・イーリィは伯爵家のタウンハウスを追い出され、処刑人小道のあばら屋での生活を余儀なくされている。

 

 それなのに、なぜなびかないの。

 

「アイザック。きちんと理由は聞いたわよね?」
「はい。しかし、その……よく、わからないような理由で」
「嘘が下手ね。ちゃんと聞いたのでしょう? 教えなさい」
「は……」

 

 いいにくそうに、視線を下へ逃がす。

 

「マーガレット様のことが、嫌いだからだと」
「なんですって?」
「レンは愚か者です。見目が美しいだけの、中身の腐りきった下賤な娘に入れこんでいる。マーガレット様の麗しくも高貴なお人柄を、少しも理解していない」

 

 アイザックは忌々しげに顔を歪ませた。
 歯の下で、ぎり、と爪が鳴る。

 

「マーガレット様」

 

 アイザックが眉を寄せた。
 絨毯にひざまずく。

 

「お指が、痛みます」
「放っておいて」

 

 アイザックは懐からハンカチーフを取りだした。
 綺麗に折りたたまれたそれを掌に乗せ、差しのべる。

 

「お手を」

 

 わたしはぐっと息を詰めたあと、息を吐き出した。
 口もとから手を外し、ハンカチの上に乗せる。
 アイザックは唾液に濡れた無残な指先を、そっとハンカチで包んだ。

 

 ドロドロになっていた胸のうちに、スウと風が抜ける感じがした。

 

「次はわたしが直接、レン・イーリィに交渉しに行こうかしら」
「……。それでしたら、他の従僕ではなく、私をお連れください」
「なぜ?」
「レンはお嬢様に対して不敬な男です。私がお護りいたします」

 

 わたしは目を眇めた。
 アイザックはレン・イーリィに敵わないまでも、我が家のどの従者・従僕より腕がある。

 

 レンがわたしに力を示すことなど考えられない。
 きっとアイザックは、わたしが不遜な態度にさらされることを、許せないのだろう。
 そういう男だ。

 

「いいわ。けれど口出しは一切しないでちょうだい。おまえはすぐに頭に血が昇って、高圧的な態度に出るでしょう。それでなにもかも台無しになるのよ」
「はい。至らず、申し訳ありません。すべて、マーガレット様のお心のままに」

 

 アイザックは弱々しく頭を垂れる。
 ハンカチーフに包まれた手の甲に、武骨な口付けが落ちた。

 

 

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