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 本当にこのような場所に住んでいるのかしら。

 

 未舗装の地面に足を取られる。
 アイザックの腕を使いながら、やっと小屋に辿りついた。

 

 小さな庭にたき火のあとがある。
 こんなもので暖をとるのかしら。
 それともまさか、調理を?

 

 アイザックが扉をノックした。
 ややあって、無造作にひらく。

 

 どんよりと、こもるような匂いが鼻をついた。
 いったい何の、と思いかけてすぐに気づく。
 油絵の具だ。

 

「なにしにきた、アイザック」

 

 不機嫌を隠しもせず、レン・イーリィがいった。
 琥珀色の視線は、わたしにも注がれている。

 

 漆黒の髪に象牙色の肌は珍しい。
 『レン』という名も、聞いたことがない。
 異国の血が混ざっているのかもしれない。

 

「我が主マーガレット・リーズ様から、おまえに話がある」
「は? ……昨日の話なら断っただろ」
「どうしたんだ、レン」

 

 奥から少女の声が聞こえてきた。
 胸がぐっと掴まれるような感覚がする。
 世界でもっとも憎らしい人間の声だ。

 

 『私はチェルシー・フレットと婚約をする』
 『彼女を愛してるのだ。わかってくれ、マーガレット』

 

 愛する方と結ばれるのは、とても素晴らしいことですわ。

 

 あの時、わたしは殿下にそう告げた。
 わたしがわたしであるための、精いっぱいのプライドだった。

 

「チェルは戻れ。気にせずに絵を描いててください」
「そうはいっても」

 

 チェルシー様は迷うようにわたしを見る。
 翡翠色の美しい瞳。
 胸がざわつくのを、必死で抑えた。
 けれど抑えきれないドロドロが、口もとから零れでる。

 

「おはようございます、チェルシー様。まさか本当にこのような場所にお住まいになっているとは、思いもしませんでしたわ。このような小さな家で、雨風は凌げますかしら。もし冬、お寒いようでしたらどうぞ我が家の厩をお使いになって。このお屋敷よりも使い勝手はいいと思いますよ」

 

「お心遣い、恩に着る。しかし不要だ」

 

 チェルシー様は短く切って捨てた。
 そうだ、これがチェルシー・フレットだ。
 生半可な嫌味や嫌がらせでは、動じない。

 

 もっと、もっと、徹底的にやらないと。
 あの美しい顔が歪むのを見たい。

 

 そうしていじめ行為は、坂を転げ落ちるように辛辣になっていったのだ。

 

「チェル。中に入ってろ」
「あの話とはなんだ? わたしは聞いてない」
「あんたには関係ないです。いいから早くーー」
「関係なくはないでしょう? ご自身の従者の進退のことなのですから」

 

 レン・イーリィは舌打ちする。
 あくまでもチェルシーさまを護ろうとする態度だ。
 昔から変わらない。

 

「昨日断ったろ。しつこいぞ」
「待てレン、なんの話だ」
「給金が倍で不満なら、2.5倍はどうかしら」

 

 チェルシー様の、愛らしい瞳がゆっくりと見開かれた

 

「給金……? まさかマーガレット様、レンを?」
「ええ。わたし、この者が気に入りましたの。チェルシー様は丸腰になられるわけですから、ご不安でしょう? よろしければアイザックをお譲りします」
「え"?!」

 

 チェルシー様が露骨にあとずさった。
 それはそうよね、イヤよねこんな陰気な従者。

 

 アイザックはわたしの横で、暗く押し黙っている。
 レンは疲れた表情でため息をついた。

 

「だからオレはいくら積まれても移る気はーー」
「だめだっ!」

 

 チェルシー様が突然大声を出した。
 細い両腕でぎゅっとレンを抱きしめ、わたしを必死の形相で見上げる。

 

「だめだ、だめだ、だめだ! レンはやれない、絶対に駄目だ!」

 

 レンはびっくりしたように目を見開いた。
 驚いたのは、わたしも同じだ。

 

 外からきたものを冷静に受け流しているだけだったチェルシー様が、取り乱している。
 殿下の求愛にさえ、そうだったのに。

 

「き、給金なら、わたしがもっと払う。いまの3倍払う。だからレンを連れていかないでくれ」

 

 口もとに、自然と笑みが浮かんだ。
 必死にいい募るチェルシー様の、なんと愉快なことか。

 

「貴女にそのような大金が払えるのですか? あれから一枚でも絵は売れましたか?」
「こ、これから売る。アルトゥのところなら買ってくれる」
「ジュナ画廊はそんなに甘くないでしょう? 3倍の給金を出すなら、パトロンを見つけるのが近道ではないかしら。その可愛らしいお顔にならいくらでも値がつくのではなくて?」

 

 チェルシー様の表情が苦しげに歪んだ。
 ああ、快感。
 快感だわ。

 

「おい、アイザック」

 

 レン・イーリィが口をひらいた。
 不快げに、眉をしかめている。

 

「これがおまえの大切なお嬢様か。ずいぶんと品のいいご主人だな。これ以上ご愛嬌を振りまかないように連れ帰って鎖にでも繋いどけ」
「き、貴様マーガレット様に向かってなんたることを!」

 

 アイザックが激昂する。
 わたしはなにをいわれたのかすぐに理解することができなかった。

 

「とにかく」

 

 レンは、自身にしがみつくチェルシー様に腕を回して抱き上げる。

 

「オレはあんたより、こいつが可愛い。だから侯爵家の従者になる気はない。もう帰れ。話は終わりだ」

 

 チェルシー様の頬が赤く染まった。
 瞳を潤ませ、レンの首もとにきゅっと腕を回す。

 

 アイザックは怒りで震えていた。

 

 ……なによ、これ。
 なんなのこれは。
 これではまるで、ふたりは恋人同士みたいじゃない。

 

「まさか……」

 

 震える声が、のどの奥から零れ落ちた。

 

「まさか、ユーリス殿下の婚約を白紙に戻したのは、その男と恋仲だったからなの?」

 

 おかしいと思っていた。

 

 チェルシーの夜遊びの噂を流したのはわたしだ。
 実際、彼女は真面目で夜8時以降にほとんど外に出ない。

 

 それなのに、突然噂を裏付けるような行動を起こした。
 不可解だったけれど、婚約が破棄された喜びで、あまり深く考えていなかった。

 

 わたしは扇で口もとを覆った。後ずさる足がもつれて、アイザックにつかまる。

 

「なんて、怖ろしい。殿下を色で籠絡した裏で、従者とも通じていたなんて」
「品のない上にめんどくせー女だな」
「レン! 貴様というやつは、もう許さん。表へ出ろ!」
「アイザック、おまえな」

 

 レンはため息をついた。

 

「おまえらのことなんて正直どうでもいいけどな、アイザックはまず、自分がだいぶズレてることに気づけ。甘やかす方向がちがう」
「な、なにをいう。私はただ」
「マーガレット嬢にも同情の余地がないわけじゃない。あのボンボンが元凶っていうのはわかる。ただチェルシーを過去何度も傷つけた。オレはおまえたちを許すことはないだろう」

 

 無慈悲に扉が閉められる。
 最後に一度だけ、チェルシー様と目が合った。
 涙に潤んだそれに、わたしへの非難の色を見つけることはできなかった。

 

 

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