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 イーゼルのまえの椅子に、降ろされた。
 レンの腕が離れてしまう。
 わたしはとっさに、腕をつかんだ。

 

「あ、あの」
「さっきのことは気にすんな。蚊に刺されたとでも思っておけ。多少不快だが、すぐに治る」
「でも……。ええと。なんていったらいいのか」

 

 途方に暮れた。
 するとレンは片膝を折って、わたしと視線を合わせる。

 

「どうした?」
「いや、その……レンは、わたしのことを、可愛いと思ってくれているのか?」

 

 レンはふいを突かれたようだった。

 

「それを聞いたとき、すごく嬉しかったんだ」
「……」

 

 ここに残ることを選んでくれたことより。

 

「わたしはいろいろとダメな主人だから、レンは呆れているだろうなとばかり思っていたんだ。
 レンはしっかりしてるし強いし、きっとどこのお屋敷でも立派に勤めるだろう。
 でもわたしは、おまえでないと、ダメだから。
 すまない、レン。わたしがおまえを縛りつけているのかもしれないな」
「……そんなわけ、ないだろ」

 

 ぽつりと、レンがいった。
 広い手が伸びて、頬を包む。

 

「おまえが一番、可愛いよ」

 

 少し顔を傾けて、レンの唇が、わたしのそれに重なった。
 かたん、と小さく椅子が鳴った。

 

 

 

 

 きつく抱き寄せられていた。
 気づいたら、床に座りこんだレンの上にいた。
 後ろ頭を掴まれて、深く口づけをされていた。

 

 どれくらい時間が経ったのかわからない。
 ただ必死で、レンの胸もとをつかんでいた。

 

 やがてレンがゆっくりと、唇を離した。
 息が乱れているのはわたしだけだ。
 優しく髪を撫でられて、こめかみにキスが落ちた。

 

「悪い。ちょっとガッツいた」

 

 体に巻きついた腕の力が、少しゆるむ。
 かすむ視界でぼーっとしていると、レンが心配そうに覗きこんできた。

 

「大丈夫か?」
「……うん」

 

 こくんとうなずく。
 レンの指が、わたしの前髪を横に寄せた。
 ひたいに口付けられる。

 

 きゅっと胸がちぢんだ。
 なんだろう、これは。
 切ないような、苦しいような、それでいて全身が熱くて、包まれている安心感が途方もない。

 

「レンにしなだれかかってるという噂を聞いたときは、キモいとしか感じなかったのに。なぜだ」
「この状態で、そういうこというか?」

 

 レンは苦笑する。
 再び唇に、軽いキスを受けた。

 

「レンは、とても優しく、わたしに触れるのだな」

 

 レンの、ごつごつした掌を両手で持ち上げる。
 自分の頬に持っていって、すり寄せた。

 

「だからなのかな。こんなにも、安心するのは」
「……」

 

 レンはしばらく沈黙した。
 やがてきゅっと自身の掌を握り、頬から遠ざける。

 

「――散歩、いくぞ」
「え? どうしたんだ急に」
「いいから」

 

 わたしを抱いたまま立ち上がり、すとんと下ろした。
 性急にケープをかぶせられ、手を引かれ外に出る。

 

 秋の太陽は薄い。

 

「あー、クソ」

 

 小道を歩きながら、レンは呟いた。

 

「誰かなんとかしてくれ、この天然娘」

 

 

 

 

 奢らせろ、と半ば脅されて、酒場へやってきた。
 ランチタイムはレストランになるらしい。

 

「いらっしゃーい」

 

 例の色っぽい女性店員が、やる気のない声を投げてきた。

 

「昼間っから仲がよろしくてなによりだわ」

 

 彼女の視線の先には、レンに繋がれた右手がある。
 思わず赤くなってしまった。

 

 それを見て、女性店員は眉をしかめる。

 

「本格的に付き合い始めたわけね。前回は恋人未満な感じだったのに」
「ケイト、ランチセットふたつ」

 

 レンは女性店員の言葉にかぶせるように、オーダーした。

 

 

 

 

 レンがトイレにいっているときに、ケイトがやってきた。

 

「ちょっと聞きたいんだけど」
「なんだ?」

 

 ケイトは不機嫌そうだ。

 

 こうして近くで見ると、意外と若い。
 色気があるからてっきり年上かと思っていたが、もしかすると同年代かもしれない。

 

「もう一度確認したいんだけど、あんたほんとにレンとつきあってんの?」
「……」

 

 確かケイトはレンを憎からず思っていたはずだ。
 マーガレット様の嫌がらせを思いだす。
 警戒するに越したことはない。

 

「まだ曖昧な関係だ。はっきり付き合おうといったわけではない」
「あ、そう」

 

 ふん、とケイトは鼻をならした。

 

「そうねえ。レンはもう大人の男だから、手つなぎデートだけじゃ付き合ってるうちに入らないかもね」

 

 むっとした。
 つい挑発に乗ってしまう。

 

「キスはされたがな」
「……」

 

 ケイトの眉が盛大にゆがんだ。
 艶やかな髪をはらう。

 

「ふーん。でもそれだけじゃダメね」
「なにがダメなんだ」
「ちゃんといわれたの? 好きだとか愛してるとか、付き合ってほしいとか」
「いわれてない」
「じゃあダメよ。遊ばれただけよ。レンってイケメンだし強いしお金持ってるし、女に不自由しないのよ。そういう遊びの女、何人もいるんじゃない? 残念ながらあんたもそのうちのひとりよ」
「遊びの女……」

 

 まさかそんな。
 レンに限って。

 

「あんたそこそこ……っていうかずいぶんカワイイけど、レンの好みじゃないのよ。もっとこう、あたしみたいにいろんなところがぼーんと出て、きゅっと締まってないと」
「見る目がないな。わたしはこう見えて脱いだらすごいんだぞ」
「痩せ我慢しなくていいのよ。むなしくなるだけよ」
「いっておくが、レンは女遊びなどしない。女を体で選んだりもしない」

 

 ケイトとの間に火花が散る。

 

「ところであんた、名前は?」
「チェルシーだ」
「チェルシーね。覚えておくわ」
「わたしもケイトの名は忘れそうにない」
「お互いに不快な名前ということね」
「ーーなに話しこんでんだ、ふたりとも」

 

 いつのまにかレンが近くに来ていた。
 怪訝な顔である。
 わたしとケイトは慌てた。

 

「い、いやなんでもないんだ。な、ケイト」
「そ、そうよ。あたしとチェルシーは仲良くなったの。友達よ。ね、チェルシー」

 

 友と書いて敵と読む。

 

 むかむかしながらも、「遊ばれている」という言葉が頭から離れない。
 不覚だ。

 

 

 

 帰り道。
 わたしは無意識に、レンと距離を取っていた。
 ぴったり2歩分ひらき、横に並んでいる。

 

「……なあ、チェル」
「なんだ」
「そんなに離れて歩いたら、通行人に迷惑だと思わないか?」

 

 正面から歩いてきたおじさんが、2歩分の間を通りづらそうに抜けていく。

 

「いや、あまり気にするな」

 

 遊ばれてはいないにしても、さっきは初めての口づけだったのだ。
 それなのに密着しすぎだった。
 レンは女性慣れしているような気がする。

 

 しかしわたしは男性慣れしていない。
 婦女子たるもの、婚前に間違いを起こすべきではない。
 ここは身持ちを固くしておかなければならない。

 

「酒場にいったあたりから、様子がおかしくないですか?」
「そんなことはない。いたって普通だ」

 

 ぶんぶんと首を振る。
 レンは怪訝そうに眉を寄せた。

 

「まあ、いいですけど。看板にぶつからないでくださいよ」

 

 ぶつかった。
 しかも、低い置き看板だ。
 そのまま前のめりにコケそうになるところを、レンに抱き寄せられる。

 

 レンの匂いだ。

 

「大丈夫ですか」
「だ、大丈夫だ!」

 

 どん、とレンの体を押しのけた。
 み、身持ちを。
 身持ちを、固くしなければ。

 

 レンがきょとんとしてこちらを見る。

 

「どうしたんですか。体調でも悪いんですか?」
「そ、そうだ。頭がガンガンして胸が苦しくて眩暈がする! ちょっとばかり診療所に行ってくる!」
「ちょ、チェル、待て!」

 

 ダッシュしたわたしを、レンが慌てて追いかけてくる。
 あっさり捕まって、後ろから羽交いじめにされた。

 

「や、やめろ、離せっ」
「いきなり道路渡ろうとすんな、馬車に轢かれたらどうする。こら暴れんな。オレが変質者みたいだろうが」
「しかしおまえは慣れているだろう!」
「はあ?! なんでオレが変質者やり慣れてんだよ!」
「チェルシー? そこにいるのは、チェルシーじゃないか!」

 

 感極まった声が割って入った。
 聞き覚えのありすぎる声に、わたしは思わず身を竦める。

 

「し、師匠」
「煌めく才能、僕の絵筆! ああ会いたかったよチェルシー!」

 

 猛ダッシュで道路の向こう側から駆けてきた。
 通行中の馬車に大迷惑をかけている。

 

 師匠は29歳という若さで美術界の頂点に君臨する画家である。
 ダークグレーの髪は長く伸ばされ、服装は相変わらずハデハデだ。
 まだ初秋だというのに、ふわふわの毛皮のストールを巻いている。
 なんと真夏でも巻きっぱなしなのだ。
 暑ければ暑いほどパッションが増すというのが師匠の言である。
 芸術とは趣き深い。

 

 

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