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 逃げる間もなくぎゅうーと抱きしめられた。
 いい忘れていたが、師匠の名はセネト・ラピスだ。

 

「し、師匠。苦しい」
「おとついの夜、ふいに新しい描き方を思いついてね。
 筆を口でくわえつつ逆立ちになり、鼻呼吸のみで呼吸困難一歩手前に身を置きながらトランス状態に入り、男性の裸体をめまぐるしく描き続けるという方法だよ。
 実にパッションみなぎる描き方だろう!
 一秒でも早くこのやり方でチェルシーに絵を描いてほしくて駆けつけたんだよ。
 それなのに君はいなくて、僕がどんなに悲しく、淋しく、苦しかったか」
「そのやり方は、わたしには高尚すぎます」

 

 べり、と師匠が剥がされた。
 レンが不機嫌な顔をしている。

 

「何度もいっていますが、いかがわしい方法をチェルシー様に教えないでください」
「ん? 誰だね君は」
「従者のレン・イーリィです」

 

 何百回いっても、師匠はレンの顔と名前を覚えられない。

 

「ふうん、レン君。僕はチェルシーに用があるんだ。
 邪魔だから向こうへ行ってくれないかな」
「従者ですので、できかねます」
「そうかい。さあチェルシー、君のアトリエにいこう。
 おとついの分まで、心ゆくまで、ともにパッションをぶつけあおうじゃないか」
「えーと、師匠」

 

 師匠には婚約破棄から現在に至るまでの経緯を話していない。
 というのも、わたしが王子殿下と婚約したという事実を、端から忘れてしまうのだ。
 3年前からずっと説明しているが、彼の脳に1秒でも留まったことがない。

 

 天才とは悩ましいものである。

 

「師匠、わたしはあの家を出たのです。
 いまは処刑人小道の小屋で暮らしています」
「ほう。ではそちらのアトリエに行こう」
「アトリエというか、住居も兼ねているのですが……。
 それで師匠。わたしは勘当された身ですので、実入りが少ないです。
 だからもう師匠に教えていただくことができなくなりました。
 レッスン代が払えないのです」

 

 わたしはうつむきながらいった。
 師匠は変人だが、絵の腕は凄まじいものがある。

 

 それは無数の批評家や愛好家を大混乱させるほどの出来栄えで、
 強固な骨格の中に静寂があり、
 息苦しくなるほどの緻密さを内包しつつ、
 豊かな色彩構成でふくよかな精神性を醸し出す。

 

 師匠は天才だ。
 見込まれたのは嬉しい。
 教えを受けられないのは、つらい。

 

 レンがいった。

 

「チェル。レッスン代ならオレが」
「ん、何だねそれは。札束の話かい?
 そういうのは妹にすべて任せてあるから、気にしないでいいよ。
 さあ、アトリエにいこう」
「えっ、でも」
「実入りがないのなら、僕の家にくるといい。
 そうだ、それがいい。そうしよう。
 朝昼晩毎日一日中、あふれるパッションに溺れながらふたりで絵を描き続けるんだ!」
「それは遠慮します」

 

 師匠を御せるのは妹さんだけだ。
 今度彼女に話を通しておこう。

 

 師匠がみなぎって収まらないので、仕方なく小屋に案内して数時間絵を描いた。

 

 キャンパスを前にしたとき、師匠の情熱は最高潮に達する。
 厳しくも激しい教示に息も絶え絶えになりながら、わたしは1枚の水彩画を描き上げた。

 

 その夜は、気絶するように眠りに落ちた。
 とても疲れたけれど、レンと気まずい最中だったから、逆に良かったかもしれない。

 

 

 

 

「この絵はすばらしいね。
 ぜひ画廊に置かせてくれないか?」

 

 その水彩画は、アルトゥ・トレザーのお眼鏡に叶った。
 彼は上機嫌に額縁を用意している。

 

 水彩画は油絵に比べて劣化が早い。
 号価格は油絵の半分で契約しているが、今回はよほど気に入ってくれたのか、油絵の価格で引き取ってくれた。

 

 札束を握りしめて陶酔する。
 アルトゥが微笑んだ。

 

「立ち直ったみたいだね。
 マーガレット様の一件以来、とても落ちこんでいるようだったから心配していたんだ」

 

 そういえば、この画廊でマーガレット様と再会したのだった。

 

「あの時は騒がせてすまなかった」
「いや、いいんだよ。
 僕としては、君があの有名なチェルシー・フレットだとわかって逆にラッキーだったからね」
「はは、王子殿下から婚約を破棄された極悪女だからな」
「ああ、そうじゃなくて。
 君はあの大画伯・セネト・ラピスの一番弟子だろう?
 僕らの世界じゃ、婚約どうこうよりそっちのほうで有名だよ」

 

 そうだったのか。さすが師匠。

 

「実はその絵は、昨日師匠の指導のもとに書いた絵なんだ」
「ああ、それで。
 でもセネト・ラピスのタッチとはまたちがうから、君の感性で描いたことがわかるよ。
 ラピスは指導者としても優秀なんだね」

 

 隣でレンが複雑な顔をしている。

 

「僕ら画商は、実物に会ったことがないんだ。
 絵はしっかり者の妹さんが持ってくるしね。
 彼はどういう人物なんだい?
 やっぱり画家然とした、繊細な感じなのかな」
「うーん……。まあ、そんな感じかもしれないな。
 才能がダダ漏れというか」

 

 師匠のお人柄をいい表すのは、実に難しい。

 

「おねーちゃん、こんにちは」

 

 とことこと、奥からこどもが出てきた。
 5歳くらいの、きっちりした服を着た少年だ。

 

 くりくりした瞳が可愛らしい。
 わたしは膝を折って目をあわせた。

 

「こんにちは。もしかして、アルトゥのご子息かな?」
「ちがうよチェルシー。このこは姉の子だ。
 姉夫婦が旅行に行くっていうから、預かってるんだよ。僕は未婚」
「そうか。わたしはチェルシー。こっちはレンだ。
 あなたの名前は?」
「ココ」

 

 はずかしそうに笑いながら、こたえてくれた。
 わたしはふわふわした髪に手を乗せて、そっと撫でた。

 

 

 

 

 お昼ごはんは、早朝レンが釣ってきた魚を焼いた。
 パンもレンが買って来たものだ。
 最近食費はほとんどレンが出している。
 いいといっても聞かないのだ。

 

 丸太を切って作った長椅子に並んで座る。
 距離は二歩分きっかりあけている。

 

 じゅうじゅうと、串に刺した魚の尻尾におこげがついていく。
 たき火は勢いよく燃えていた。

 

 それを見ながら、レンはいった。

 

「売れてよかったな」
「ああ。師匠のおかげだ」
「レッスン、辞めることないだろ。
 セネト先生は変人だけど、腕は確かだ。
 どう考えても続けたほうがいい」
「……でも」

 

 師匠のレッスン代は膨大だ。
 画材代と馬車代こみで、月10万リーエルもする。
 とても払えない。

 

「ま、あの様子だとみなぎった時にはいつでもここに現れそうだけどな」
「はは、そうかもしれないな」
「週1くらいで来てくれればそのたびに売れる絵ができるからラッキーだよな」
「あ、ああ。そうだな」
「……」
「……」

 

 き、きまずい。
 会話が続かない。
 無駄に緊張してしまう。

 

「おい、チェル」

 

 ふいに、低い声でレンがいった。
 ちょっと怒っている。

 

「な、なんだレン」
「やっぱりケイトになんかいわれたんだろ。全部話してください」
「ケイトは関係ない」
「じゃあチェルシー様ご本人の問題なんですね?」

 

 う……。

 

 琥珀色の瞳で、真正面から見据えられる。
 まともに顔が見られない。

 

「み、身持ちを固くしなければと思ったんだ」
「みもち? ってなんですか」
「あまり軽々しく異性に触れるのは、婦女子としてはしたないだろう。結婚前なのに」

 

 レンは沈黙した。
 やがて、複雑な表情になる。

 

「あー。それは、まあ。わかりますよ。オレだって貴族のご令嬢がどんな教育を受けるのか、ちゃんとわかってますから」
「わかってくれるか」

 

 ほっとした。

 

「わたしはもう貴族ではないから、あまりこだわらなくてもいいと思うのだがな。レンに軽い女だと思われるのもイヤなんだ」
「そんなこと思いませんよ」

 

 レンは苦笑する。

 

「チェルシー様を何年見てきたと思ってるんですか」
「ああ、そうだな。しかしレンから好きだとかそういう言葉もないままキスだけされたから、ついこいつはわたしで遊んでいるのではないかと勘ぐってしまった。そんなことあるわけないのにな」

 

 ケイトの言葉は頭から追い出そう。
 しかし、突然レンが不穏になった。

 

「信じられん」

 

 眉間にシワを寄せて、つぶやく。

 

「普通そうとるか? ありえんだろ」
「れ、レン? もしかして怒ったのか?」

 

 おそるおそる聞く。
 レンは片目を眇めて、わたしを見下ろした。

 

「いえ、怒ってません」
「そうか。よかった」
「いまの言葉でわかりました。チェルシー様はオレのことをずいぶんと好きなんですね」

 

 こ、こいつ恥ずかしげもなくよくもそんなことを言えるな。
 余裕な態度が実に可愛くない。

 

「そのようなこと、わたしはひとこともいっていない。だいたいおまえこそ、わたしを抱き上げたり抱きしめたり口づけしたり、やりたい放題じゃないか。主であるわたしに対してなんの断りもなくいつもふいうちだ。卑怯だと思わないのか」
「成程。よくわかりました」

 

 唐突に抱き寄せられた。
 頭の中が真っ白になる。

 

「好きだよ」

 

 腕の中で、その言葉を聞いた。
 心臓が破裂しそうで、きゅっとレンの胸もとをつかんだ。

 

「貴女の唇をオレにください」

 

 体が熱くて、頬が火照って、どうすればいいのかわからない。
 あごを掬われて、口付けを与えられる。
 やわらかくて熱いキス。

 

「レ、ン……」

 

 唇をほどいて、レンは苦笑した。

 

「頬が林檎みたいですよ」
「だって、レンが」
「とても軽い女には見えません。どちらかというと流されやすい」

 

 レンの掌が、頬をなでる。
 琥珀色の瞳に、わたしが映っている。

 

「そんなことは、ない。流されてるわけじゃない。わたしはレンのことが、」

 

 耳まで熱くなる。
 その先がいえなくて、うつむいた。
 レンが軽く笑う。

 

「遊ばれているのはオレかな」
「ち、ちがう」

 

 幼い頃からずっと近くにいた。
 だからこれからもずっと一緒にいるんだと思っていて、そしていまでもそう思っている。

 

「レン」
「はい」
「好きだ」

 

 いってから、顔がさらに上気して、上げていられなくなった。

 

「オレもだよ」

 

 レンは笑って、うつむいた頭のてっぺんにキスをした。

 

 

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