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 アイザックという名は、お館様から頂いた。
 私はみなし子だった。
 孤児院にいたころは別の名で呼ばれていたが、いまはもう覚えていない。

 

 孤児院では4歳のころから年下の面倒を任されていた。
 だから、赤ん坊の世話はお手のものだった。
 当時から無口で不愛想だったが、どうしてか赤ん坊らは私に懐いた。

 

 ある日、侯爵様が視察にいらした。
 侯爵夫人に抱かれていたのが、マーガレット様だった。

 

 マーガレット様はひどくぐずっていらっしゃった。
 当時、1歳になられるかどうかという年齢だったろう。
 侯爵夫人は孤児院の院長夫人とお喋りするのに夢中で、ぐずるマーガレット様を乳母に任せ、別室に移られた。

 

 乳母は夫人がいなくなると、マーガレット様をゆりかごに置いた。
 そして安楽椅子に腰かけ、レース編みをし始めた。

 

 マーガレット様は全身を震わせるように泣いていらっしゃった。
 放っておけず、私はマーガレット様を抱き上げた。
 乳母はちらりと目を上げたが、またすぐにレース編みに戻った。

 

 しばらく抱っこして揺らしていると、泣きやまれた。
 大きな瞳に私を映し、もみじみたいなてのひらで服をつかんだ。
 そして、笑った。

 

 お帰りになられるとき、マーガレット様は私から離れるのを嫌がりたいそう泣かれた。
 私の服をつかんで離さなかった。

 

 そのまま私は侯爵家に下働きとして引き取られ、いま、マーガレット様の従者となっている。
 寝ても覚めてもお嬢様だけの日々を、過ごしている。

 

 

 

 

 シルファウスト子爵家のタウンハウスには、次男のイーサン・クレイン様がいらっしゃった。

 

 子爵やご婦人、ご令嬢がたは、社交シーズンではないこの時期、領地のほうへ戻られているそうだ。

 

「ロレンスはいるか?」
「やあレン、チェルシー。兄さんなら出かけてるよ」

 

 イーサン・クレイン様は、兄君によくにたやわらかな面差しで微笑した。

 

「そうか。悪いがイーサン、ひと晩チェルを預かってくれないか」
「べつにいいけど、珍しい取り合わせだなぁ」

 

 イーサン様は私を見て首をかしげる。

 

「マーガレット嬢が家出したらしい。ちょっと探しに出てくる」
「えっほんと? あーやっぱりまずかったかな」

 

 イーサン様はバツが悪そうな表情になった。
 おもむろに振りかえり、奥へ向けて手招きする。

 

「ユールさん、こっち来て」

 

 聞き慣れない名だ。
 レン・イーリィがとたんに不機嫌になったから、あまり仲のよくない人間なのかもしれない。

 

 しかし、のこのこと出てきた男の姿を見て、私は絶句した。

 

「ゆっ、ユーリスでん、もがが」

 

 隣のレンに口を塞がれた。
 イーサン様はちらりとこちらを見たが、特に反応せず、奇妙な格好をしているユーリス殿下に話しかけた。

 

「ほら、兄さんのいうとおりだったじゃないですか。マーガレット嬢に注意するのはやめたほうがいいって」
「話がみえんぞ、イーサン」

 

 ユーリス殿下に向かってなんという言葉遣いだ。
 兄君のロレンス様は殿下のお気に入りで有名だが、ご兄弟そろってここまで懇意にされているとは思わなかった。

 

「マーガレット嬢が家出されたそうですよ。きっと昼間いわれたことがショックだったんだよ」
「な、なにッ。それはいかん。む、そなたマーガレットの従者だな。いまから探しに行くのか」

 

 口をふさがれたまま、私はかろうじてうなずく。

 

「わかった、私もいこう」

 

 レンがやっと掌を外した。
 鬱陶しげな顔でいう。

 

「あんたはついて来るな。面倒なことになる」

 

 チェルシー・フレットがうなずいた。

 

「ユール、ここはレンとアイザックに任せよう。このふたりは優秀な従者だ。きっと無事見つけてくれる」
「チェルシー」

 

 ユーリス殿下はぽーっとした表情でチェルシー・フレットの顔をご覧になっている。
 ご自身から婚約を破棄されたというのに、まだ骨抜き状態は続いているらしい。
 しかしなぜ偽名を使われているのだろう。

 

 意味不明の状況だが、私は一刻も早く探しに行きたかった。
 それを察したのか、イーサン様が場を引き取ってくださった。
 私はレン・イーリィとともに、夜の街へ出た。

 

「お嬢さんの行き先に心あたりは?」
「ひととおり探したのだが、いらっしゃらないのだ」

 

 焦りばかりがつのる。
 レンは冷静にいった。

 

「深夜だ。貴族のお嬢さんが暗がりへ行くとは思えない。街灯の多いところへいく可能性が高いだろう。新市街までは行っていないと思うから、恐らくテルシャ広場近辺。カンヴァール通りか、シャラール通りあたりだろうな」

 

 青ざめた。
 テルシャ広場はともかく、カンヴァール通りにはタチの悪い酔っ払いや、軽犯罪を繰りかえすチンピラがたむろしている。

 

 私は猛ダッシュで広場へ駆けつけた。
 見るからに悪そうな少年の集団や、露出の高い服の女性らがうろついている。
 くまなく探したが、お嬢様の姿はない。

 

 続いてカンヴァール通りに入った。
 酒場や料理店、宿泊所が立ち並ぶ、夜の繁華街だ。
 若い男や女が客引きに立っている。

 

「おい待てって。おまえ足早すぎ」

 

 レンが肩で息をしながら追いかけてくる。
 私は構わず、辺りを鋭く見回しながら通りを歩いた。
 客引きらは、最初こちらに近づいて来るが、私の眼光を見るとすぐに逃げていった。

 

「闇雲に探したってダメだろ。まずは聞きこみだ。ギラギラした目で人を追い払ってどうする」

 

 呆れたような声を零しつつ、レン・イーリィは客引きらを引きとめて情報を集めている。
 聞きこみは奴に任せ、私はひたすら見回った。

 

 やがて道の上に、見慣れたものが落ちているのを見つけた。
 薄汚れた石畳に似つかわしくない、煌びやかな髪留めだ。無残にもバラバラに散らばっている
 愕然として膝を落とし、両手でかき集めた。

 

「マーガレット様……!」

 

 ガバっと立上がり、ギラギラとあたりを見回す。
 このあたりにいらっしゃるのですか、お嬢様。
 まさか暴漢に襲われ、その拍子に髪留めを落とされたのでは……!

 

「マーガレット様! どこにいらっしゃるのですかマーガレット様ー!」
「落ち着け、阿呆」

 

 ぺしんと後頭部をはたかれた。
 しかし煮沸した脳みそは、落ちつかない。

 

「黙れレン・イーリィ! こうしている間にもマーガレット様が酷い目に遭われているのかもしれないのだぞ! マーガレット様! マーガレット様アアア!」
「だからうるせーよ」

 

 またしてもはたかれた。
 客引きらは我々を奇異の目で遠巻きに見ている。

 

「マーガレット嬢らしき人物が、ふたりの男と一緒にそのバーに入っていったという情報があった。いってみようぜ。くれぐれも静かにな。それとそのバーだが、オレのほうにちょっと心あたりが」
「あの店だなっ」
「だから人の話を聞け!」

 

 私は矢も楯もたまらずその店に飛びこんだ。
 こじんまりとした、古いながらも清潔感のあるバーだった。

 

「マーガレット様!!」

 

 店内には数人の客と、ママと思しき美しい店主がいる。
 全員がびっくりした表情で私を見た。
 私の目は一瞬で、マーガレット様の姿をとらえた。
 同じテーブルにはふたりの若い男がついてうる。

 

 マーガレット様は、他の客らと同じように、目を見開いて私のことを見た。
 そのお顔が泣き濡れているのを認めた瞬間、全身が沸騰した。

 

「貴様ら、マーガレット様になにをした!!」

 

 進行方向にあるすべてのテーブルとイスをなぎ倒して、男らに襲い掛かった。
 イスらが斃れる音と、客の悲鳴が店中に響く。

 

 ふたりのうちのひとりが素早く立ち上がり、私の拳を迎え撃った。
 平手でぱしんと受け止めて、そのまま掴み斜め下に流す。

 

 こいつ、できる。

 

 私はもう片方の拳を握りしめ、振りかぶった。

 

「やめろバカ!」

 

 唐突に、背後から羽交い絞めされた。
 完全にキめられて、身動きが取れない。

 

「離せレン、こいつらがお嬢様をっ」
「相手をよく見ろ、少しは冷静になれアイザック」

 

 フーフーいいながらブレブレの視線で相手を見る。
 右手をプラプラさせながら、男は苦笑いした。

 

「マーガレット様の従者は馬鹿力だな。まだビリビリするよ」

 

 記憶が正しければ、この人物はロレンス・クレインのはずであった。
 私は愕然と、あとずさる。
 レンが戒めを解いた。

 

「やっぱりおまえか、ロレンス。ここ行きつけのバーだろ? どっかで聞いたことのある店だと思ったら」
「ああ、うん。偶然が重なって、今夜ここに来ることになってね。で、どういう騒動? もしかして、マーガレット様誘拐事件になってしまってるの?」
「こいつの頭の中だけでな」

 

 こつん、とこめかみに拳が当たる。
 私はとにかく心を落ち着けようと必死だった。

 

 ロレンス・クレイン様のうしろで、悠々と椅子に座っている男が肩をすくめる。

 

「ひどいなアイザックさん。僕の顔も忘れたんですか」

 

 こっちはジュナ画廊店主のアルトゥ・トレザーだ。
 もう訳がわからず、さらに混乱が増した。

 

「店の整理をしていたらマーガレット様が現れて、絵のことでお話があるといいつつ突然泣き崩れたから驚いたんですよ。なんでもユーリス王子殿下にお灸をすえられたとか。画商どうしの噂で、チェルシー・フレットの絵を置かないように圧力が来ているという話は知ってたけど、僕はそういうの興味ないから」

 

「そこへ、バーに出かける途中のオレが通りかかったというわけ。夜なのにまだ灯りがついてるのかと覗いてみたらマーガレット様が泣いてたんだ。それで景気づけに3人でここに来たんだよ」

 

 マーガレット様はバツが悪そうに顔を背けている。
 私はお嬢様の横に片膝をついた。

 

「お嬢様。お探ししていました」
「探さないでと書き置きを残したわ」
「それでも、お探ししました」

 

 むっとした表情で、マーガレット様はわたしを見下ろす。

 

「命令を聞きなさい」
「できませんでした。マーガレット様のことが心配で、ほかになにも考えることができませんでした」
「知らないわそんなこと。おまえはもうお屋敷に帰りなさい。わたしはロレンス様のお屋敷に泊めていただきます」

 

 ロレンス様は軽く肩をすくめる。
 私は眉を寄せて、お嬢様を見上げた。

 

「いけません。殿下にいわれたことで自暴自棄になるお気持ちはわかります。しかし畏れながらロレンス・クレイン様は女グセが悪いと評判の御仁です。看過できかねます」
「おまえには関係ないでしょう。もうわたしなどどうなったって構わないわ。放っておいて! 帰りなさい!」

 

 ぱん、と乾いた音が店内に響いた。
 ほとんど無意識に、私はマーガレット様の頬を打っていた。

 

 マーガレット様だけでなく、その場の全員が呆気に取られて私を見た。

 

「――私は」

 

 赤くなった頬を掌で包んで、きつく眉を寄せる。

 

「この世界でただひとり、マーガレット様だけは、放ってはおけません」

 

 寂しがり屋のマーガレット様。
 ご両親の背中ばかりを目で追いかけていたマーガレット様。

 

「どうか、この先もずっと、おそばで護り続けることをお許しください」

 

 マーガレット様は、絶句したのち、ゆっくりとまばたきをした。
 美しいその瞳から、一粒の涙が零れた。

 

 

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