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 もう、チェルシーとは会わぬと決めていたのに。

 

 クレイン家、深夜2時過ぎ。
 失恋の痛手をどうにもできず、次男を相手に深酒に沈んでいたら、突然女神がやってきた。

 

 一緒にいたのはやはりレン・イーリィだった。
 こんな夜更けにともにいる間柄なのだ。
 それは当然だ、ふたりは同棲しているのだから。

 

 わかっていることなのに、傷ついた。
 マーガレット嬢が失踪したと聞いて、さらに打ちのめされた。
 どうやら私の言葉が原因らしい。

 

 彼女の従者は私を見て驚いていた。
 しかし徐々に怒りを孕んで私を睨みつけていた。

 

「すまないなイーサン。もう寝ていたか?」
「起きてたよ、大丈夫。お客さんが来てたしね」

 

 イーサンはグラスをもうひとつ用意して、テーブルに置く。

 

 チェルシーはソファに身を沈めた。
 私を見て、力なく微笑む。

 

「ユールも、騒がしくしてすまない。ふたりで呑んでいたのか?」
「う、うむ。今夜は宿泊するつもりなのだ」

 

 翠玉の瞳から目をそらしつつ、私はこたえた。

 

 別室には私の護衛が待機している。
 大袈裟だとは思ったが、侍従がうるさいので好きにさせている。

 

 イーサンはなんのためらいもなくチェルシーの横に座った。
 私ははす向かいに座っている。

 

 貴様、近すぎだ。
 いくら幼なじみとはいえ、ずうずうしいぞイーサン。

 

「ユーリス殿下が余計なこといったんだって?」

 

 やわらかに微笑しながら、イーサンはグラスに酒をつぐ。
 礼をいって、チェルシーはそれを手にとった。

 

「殿下にも困ったものだ」

 

 桜色の唇で、ため息をつく。
 ごーんと頭を殴られる感覚がした。

 

「オレはマーガレット様と面識がないからよく知らないんだけど、彼女は繊細なお方なのかな」
「ああ、たぶんそうだと思う。わたしが殿下に見初められた時、もっとも傷ついていたのがマーガレット様だった」
「チェルシーに酷くあたってたって聞いたけど。オレはそういうの、好きじゃないな。兄さんも心配していたよ」

 

 ――心配。
 私は眉を寄せた。

 

 嫌がらせは、嫉妬からくるものだ。
 嫉妬されるということは、チェルシーが優れているということだ。

 

 ならば堂々と胸を張ればいい。
 実際、チェルシーの心は折れていなかった。
 いつも凛として、前を向いていたではないか。

 

 だから心配するよりも、我らの明るい未来を想像しては、心躍らせていた。
 私の隣に愛しいチェルシーが妃として立つ姿を、何度夢に見たことか。

 

 告白しよう。
 実はいまでも、夢に見る。

 

「マーガレット様やそのご友人らの嫌がらせは、正直こたえたよ」

 

 チェルシーは苦笑した。
 ずきん、と胸が痛んだ。

 

「無視や陰口、くだらない噂程度なら流せた。けれど体に直接くるものはキツいな」
「暴力は、されてないと聞いていたけど」

 

 イーサンが眉を寄せた。

 

「ああ、まあ直接殴られたりはしていないが。足を引っかけられたり、針や画びょうを仕込まれたことは何度もあるよ。レンがいてくれなかったら傷だらけになっていた。愚痴も聞いてもらってたかな。ロレンスにも聞いてもらったことがあるよ。ロレンスはとにかく、聞き上手だから」
「うん、わかるよ。頑張ってたんだね、チェルシー」

 

 イーサンは痛ましげにほほえんだ。

 

 私は膝の上でぎゅっと掌を握りしめた。
 爪が皮膚に食いこんだが、痛みを感じなかった。

 

「……申して、くれれば」

 

 かすれた声を、絞り出す。

 

「王子にも、それを話してくれれば、ちゃんと対処したのではないだろうか」

 

 チェルシーは困ったように微笑した。

 

「嫌がらせのこと、殿下は知っていたよ」
「し、しかし、事態を知っていてもそなたの心のうちまでは見えていなかったかもしれないではないか。近く夫婦になる間柄なのだから、悩みがあるのなら話していれば」
「うーん、そうかなぁ」

 

 チェルシーは首をかしげた。
 背中を汗が伝う。

 

「あくまでわたしの印象なのだが、殿下は嫌がらせくらいどうってことないという感覚をお持ちだったと思うんだ。殿下は生まれながらにして光のあたるところにいらっしゃる。まっすぐで、健やかなお方だ。多少の翳りなど、モノの数でもないのだろう」

 

 イーサンは特に表情を変えず、酒を口に含んでいる。
 チェルシーを見ていられなくて、私は顔をうつむけた。

 

「わたしは正直、殿下が怖かった」

 

 ああ。
 やめてくれ、チェルシー。

 

 これ以上私を、追いつめないでくれ。
 このどうしようもないほど愚かな私を。

 

「シチューに蛙を、ドレスに針を仕込まれ、わたしより先にレンが我慢できなくなった。殿下に直接、訴えたんだ。ご令嬢らの愚行を収めて頂きたいと。しかし、それを殿下は一喝なされた。レンを従者から外せと命じられた。その時のお怒りがすさまじく、私は恐怖を感じたんだ」
「そ、それは」

 

 私は脂汗を滲ませながら、首を振る。

 

「それはあの者が――レンが、あまりにもチェルシーを見つめているから。だから私はいつも、あの男を目にするたびに胸が苦しくてザワめいて、」
「ユール」

 

 イーサンが遮った。
 私は口をつぐむ。

 

 そうだ、私はいまユールだ。
 地方の小貴族の子息だ。
 涙がじわりと滲んでくる。

 

 だからこそ、チェルシーは話してくれるのだ。
 王子ではないから、胸の内を語ってくれる。

 

 チェルシーは、ユーリス・アートラッドを警戒している。
 恐れを抱いている。

 

 そのようなこと、思いもしなかった。

 

 ――チェルシーが私に、本心を訴えてくれていれば。

 

 ちがうのだ。
 そうではないのだ。
 私が、気づかなければならなかった。
 凛と立つ美しい横顔の中に、悲痛を秘めていたことを。

 

 婚約、という言葉に陶酔して、婚約者の内側に目を向けようとしなかった。

 

(護らねばならなかった)

 

 従者のレンではなく、
 婚約者の私が。

 

「ど、どうしたんだユール」

 

 チェルシーが目を見開いた。
 怒涛のように流れ出る涙を、抑えきれなかった。

 

「あーあ、泣かせちゃったねチェルシー」

 

 イーサンが苦笑する。
 チェルシーは「わたしなのか?!」と動揺した。

 

「そ、そなたの、せいでは、ない。わ、私が、愚か、だったのだ」

 

 イーサンがハンカチーフを差しだしてくれた。
 あふれる涙をゴシゴシ拭う。

 

 チェルシーが途方にくれた風情で、私の横に座った。
 ふわりと甘い香りが広がる。

 

「大丈夫か、ユール」

 

 そっと肩に触れる、小さな掌。
 ああ、こんなにもか弱い手で、苦しみと悲しみに耐えたのか。

 

 いまからでも、遅くはないだろうか。
 気づくのが遅すぎた。それは承知している。
 すでにチェルシーは、レンと恋仲になってしまった。
 なにもかも、もう遅い。

 

 けれど、あきらめきれない。
 彼女のことを、愛しているのだ。

 

 許されるのならばもう一度、時を巻きもどしたい。
 そうしたら今度こそ、彼女を悲しませぬように、この手で護りきるのに。

 

「チェルシー」

 

 涙でかすれた声で、いった。
 翡翠の瞳が、心配そうに私を見ている。

 

「すまなかった、チェルシー」
「ユール……?」

 

 肩に添えられた手を、とる。
 やわらかくて、あたたかい。

 

「また、そなたに会いに行ってもいいか?」

 

 会いたい。
 1秒だけでも、一瞬でも、笑顔が見たい。

 

 チェルシーは笑った。

 

「もちろんだ。また一緒にごはんを食べよう」

 

 私は昇天した。

 

 ああ、この恋心が叶わなくてもいい(というか叶う気がしない)。
 チェルシーがずっと笑顔でいられる方法はないだろうか。

 

 

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